正信念仏偈

サンマテオ仏教会は浄土真宗のお寺で、親鸞聖人(1173−1262)が宗祖ですが、親鸞聖人はもともと自分自身で新しい宗派を始める意志はなく、いつも師匠の法然聖人(1133−1212)に対しての尊敬を表されていました。『歎異抄』に親鸞聖人の次のお言葉があります。

この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」という法然聖人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません。

念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に落ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然上人にだまされて、念仏したために地獄へ落ちたとしても、決して後悔はいたしません。

なぜなら、他の行に励むことで仏になれたはずのわたしが、それをしないで念仏したために地獄へ落ちたというのなら、だまされたという後悔もあるでしょうが、どのような行も満足に修めることのできないわたしには、どうしても地獄以外に住み家はないからです。

(『浄土真宗聖典 歎異抄 現代語訳 6〜7頁』)

 

では、法然聖人が進めた念仏とは何なのでしょうか?念仏とは「仏様を念じる」ということですが、その中でも、法然聖人と親鸞聖人の教えは称名念仏といい、南無阿弥陀仏の名号を称えることを意味します。 「南無阿弥陀仏」というのは古代インドのサンスクリット語の言葉を漢字で音写されたもので、「阿弥陀仏に帰依します」という意味です。「阿弥陀」は無量という意味で、仏様の光明と寿命は計り知れないということを表しています。そして、光明は仏様の智慧で、寿命は仏様の慈悲を表しています。

親鸞聖人の教えには、「南無阿弥陀仏」は如来からの勅命であり、仏様の「私に帰依しなさい」という呼び声を味わうことが出来ます。疑う心なく仏様の呼び声の念仏を聞けば、喜びと感謝の念仏は常に自然と私たちの口から出てきます。このように如来の智慧と慈悲が、南無阿弥陀仏の六文字となって、私の心まで響いてくるのです。

この念仏は、阿弥陀如来の働きによって私たちの心に伝わってくるので、これを他力念仏と言います。ただ、法然聖人が述べた「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」という教えはとても分かりやすいのですが、他力の念仏についての誤解と混乱がありました。その混乱の中、法然聖人の教えを正しく伝えようと努めていた一人が親鸞聖人でした。

親鸞聖人は数多くの著書を残されました。その中の「正信念仏偈」(正信偈)はたった60行120句ですが、その中には他力念仏の重要な意味が徹底的に述べられています。私が日本で出会った先生の一人に「朝に正信偈を勤める。夜に正信偈を勤める。これは浄土真宗の文化です。」とおっしゃった方がおられました。正信偈は南無阿弥陀仏のこころで始まります。

帰命無量寿如来 南無不可思議光

限りない命の如来に帰依し、思いはかることのできない光の如来に帰依したてまつる。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類 現代語訳 143頁』)

 

親鸞聖人の正信偈と和讃が私たちの日常勤行として定められたのは、本願寺八代目の御門主蓮如上人でした。蓮如上人が御門主であった当時、多くの念仏のグループは教えに対する理解もお勤めの仕方もバラバラだったため、長続きしそうにありませんでした。そのため、他力念仏の教えが正しく伝わるようにと、蓮如上人は文明5年(1473年)3月、親鸞聖人の『正信念仏偈』と『三帖和讃』を出版されました。それによって、多くの方が親鸞聖人の教えに出会うことにより、感謝と喜びの念仏が布教していったのです。

 

南無阿弥陀仏