仏様のやさしさ

いよいよ夏が到来し、子供たちも夏休みに入ったので、天気がいい日はビーチに行ったり、旅行をしたりして、出来るだけリラックスして楽しく過ごしたいなと思う今日この頃ですが、ずっとそのような幸せなが気分が続くというのはなかなか難しいものです。仏教の基礎的な教えの中の一つに、私たちは自らの行いと言葉と考え方によって、自分がどのような人間になるのか、どのような環境に暮らすのかが決まるとあります。この仏さまの教えによれば、賢く優しい人間になりたいと一生懸命努力する人は幸せな人生を送ることが出来ると言えるでしょう。賢い人は熱心に勉強し知識を得、すでに穏やかで幸せな人生を送っている人たちからそのための方法を習い、智慧を得ようと努力をします。優しい人は常に相手の気持ちを考え、自分がされたくないことは他の人にしないよう心掛け、お慈悲の心を示します。

この智慧と慈悲を極めたのが仏様です。その事について、お参りの際によく拝読する「私たちの誓い」に次の言葉があります。

自分だけを大事にすることなく 人と喜びや悲しみを分かち合います 慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように

仏さまのような人生を目指しているけれど、実際に私はどう生きているでしょう。

慈悲を極めた仏様は全ての命あるものを平等に哀れまれたので、経典には不殺生(生き物を殺さないよう心掛けること)と説かれてあります。以前、私の息子の一人がペットとして虫を飼いたいと言ってきました。本人はクモを飼いたかったのですが、私は不殺生の教えを考えると、誰かが虫を捕まえて餌としてクモにやらないといけないから、餌として食べられる虫が可哀想に思えたので、代わりに葉っぱを食べる虫にしようと息子に提案しました。そう言われた息子はちょっとがっかりした顔をしていました。

その後、子供を公園に連れて来ていた時にちょうど息子が欲しがっていた種類のクモを見つけたので、私はすぐにそのクモを捕まえって家に持って帰りました。そして家に帰って、すでに死んでいたハエをクモにあげてみましたが、全く食べませんでした。そこで息子に「じゃあ、もし明日までこのクモが食べる虫を捕まえられなかったら、また外で餌を自分で捕まえられるぐらい元気がある内に逃してあげようか?」と息子に提案してみました。息子も「うん」と答えてくれたので、とりあえず私も安心していました。

そして、翌朝、私がシャワーを浴びようとした時、浴室に大きなシミがいるのを発見しました。前日は不殺生を一生懸命考えていたのにも関わらず、私はそのシミ見た途端、クモのエサになる!と、すぐにタッパーに入れて捕まえて、息子が起きるまで彼の机の上に置いておきました。その時の私は、息子が起きるのを楽しみにしていて、正直に言うと、息子が喜ぶと思ったので、そのシミを捕まえることも楽しんでいました。

慈悲に満ちみちた仏さまのように生きるつもりが、自分の息子が可愛く、息子が可愛がるペットのクモも可愛いと思っていましたが、シミのことは可愛く思っていませんでした。ここに慈悲を極めた仏様と凡夫である私との差が見られますが、浄土真宗の教にあるよう、まずそのことに気づくことが大切です。このように、曲がった賢さと優しさを示してしまった私は、心の拠りどころがなくまるで大海に迷い浮かんでいるようですが、こんな私をも救うことを誓ってくださった阿弥陀如来の本願に出会えたおかげで、阿弥陀仏の本願の船が私を救い、彼岸へと導いてくれているのです。この救いの喜びについて親鸞聖人は次の言葉を述べておられます。

(しょう)()(しょう)()も​なき()にて

()(じょう)()(やく)は​おもふ​まじ

如来(にょらい)願船(がんせん)いまさ​ずは

()(かい)を​いかでか​わたる​べき

わずかばかりの慈悲さえもないこの身であり、

あらゆるものを救うことなど思えるはずもない。

阿弥陀仏の本願の船がなかったなら、

苦しみに満ちた迷いの海をどうして渡ることができるであろう。

南無阿弥陀仏