南無阿弥陀仏いつ申す?

太陽がちょうど西の方角に沈むお彼岸を迎える9月は、自分の人生の歩む方向を振り返る良い機会です。サンマテオに住む私は最近、太陽が沈む西の方角に向かうとき、マウイ島で起きた大火災で大変な目に遭っている方々のことを思い、安全で安心して暮らせる日常が早く戻るよう願うばかりです。

火災の現地にあるラハイナ本願寺はサンマテオ仏教会と同じく、この夏8月12日に盆踊りをする予定でした。偶然にもちょうどサンマテオ仏教会の駐車場の真ん中でやぐらの組み建てが完成した時に、開教使仲間から送られてきた火災後のラハイナ本願寺の写真を見て、ほぼ焼け野原となったお寺の敷地の真ん中に火事から免がれたやぐらがぽつんと建っているのを見た瞬間、この世は無常であるとつくづく実感しました。

このように人生が無常であることに直面する時は特に、当たり前に思える日常生活が本当に有り難く味わえます。私たちが普段、仏教会や日常生活の中でお唱えする南無阿弥陀仏の称名念仏は私たちが生かされていることの有難さを表すものです。この南無阿弥陀仏、皆さんはいつお唱えしているでしょうか? もしかすると、お寺の本堂に入ってお参りする時や食事の前に手を合わせる時にだけ、と言う方が多いかもしれませんが、親鸞聖人は誰でもいつでもどこでもお念仏を申せばいいと説かれ、そのことを高僧和讃に次のように述べられています。

男女(なんにょ)(き)(せん)ことごとく
弥陀(みだ)(みょう)(ごう)(しょう)する​に
行住(ぎょうじゅう)座臥(ざが)も​えらば​れ​ず
(じ)(しょ)諸縁(しょえん)も​さはり​なし

男女や貴賎などの分け隔てなく、
阿弥陀仏の名号を称えることは、
歩いていても、 とどまっていても、 座っていても、 臥していても問われることはなく、
どのような時、 どのようなところ、 どのような状況であってもさまたげにならない。

私は日頃、念仏を喜ぶ同朋と過ごす際、様々な場面でお念仏を聞くことがあります。ある開教使の先輩と食事に行った時は、駐車場からレストランに入るまで歩きながら「なまんだぶ、なまんだぶ」と口にする先輩開教使の声を耳にしました。他にも、別の先輩開教使がお店のお会計を待つ間ずっとお念仏を口にするのを聞いたこともあります。

私は時々、ご門徒さんたちと一台の車に乗り合わせて、近辺の仏教会での行事に行くことがあります。ある時、一人のご門徒さんは「今度行く仏教会は以前仕事でよく行っていたから、私が運転します。」と言ってくれました。そして、通勤ラッシュの渋滞の中運転するご門徒さんの口からは「なまんだぶ、なまんだぶ」とお念仏が流れていました。

私はたまに夜中目が覚めて眠れない時があります。ある時、そのことをお一人の80代のご門徒さんに話すと、「私もそうです。そういう夜中に眠れない時にはただ南無阿弥陀仏を唱えるんです。」と教えてくれました。

このように、駐車場を歩いていたり、お店のお会計のために列で待っていたり、渋滞中運転席に座っていたり、ベッドに横になっていたりすることは一見当たり前のことと思えるかもしれませんが、常に移り変わるこの世の中で人生が続いていることは実は不思議なものだと気づくことが出来れば、今まで生かされてきたことは誠に有難いと実感出来るでしょう。

このお彼岸の機会に、いつでも、どこでも、歩いていても、 とどまっていても、 座っていても、 臥していても口に出来るお念仏を申しながら、阿弥陀仏の智慧の光に導かれた尊い授かりものである人生をもう一を振り返ってみてはいかがでしょう。

南無阿弥陀仏