慈悲の光明が常に照らしてくれる

最近、中東からの悲しいニュースが毎日届く中、ウクライナでの戦争も長引いており、さらにアメリカ国内での乱射事件も次々と起こって、この世の中はむさぼりといかりとおろかさに目が遮られ、全ての人々は共生する事の大切さが見えなくなってきているように思えます。こういう暗みが多い時にこそ、他宗教の仲間と集まり共に世の中の平和の願いを表すことで希望の光が見えてくると思います。先日、他宗教の友人と話す中で、ユダヤ教ではハヌカー、イスラム教ではラマダン、ヒンズー教ではディーワーリー、キリスト教ではクリスマスと、多くの宗教には暗闇の中の光の輝きを喜ぶ祝日があることに気付きました。

日本の仏教においては、釈迦牟尼如来が悟りを開いた日を記念する成道会を12月8日に行います。成道会とはゴータマ・シッダッタが悟りの道と智慧の光を求めた歩みを振り返りながら、仏様の素晴らしさを褒め讃える法要のことです。

悟りを求めて坐禅をしていたシッダッタが悟りを開く直前に、シッダッタが座っているところから四方に非常に明るい光が放たれたといわれています。迷いの世界を支配する魔王はその光を見ると、シッダッタが間もなく悟りを開いて、迷いの世界から開放されようとしていることが分かり、悪魔一族の仲間を呼び集めシッダッタに攻撃し、悟りを妨げようとしました。しかし、シッダッタにはこの悪魔の攻撃は幻に過ぎないということが分かっており、彼の集中力が途切れることはありませんでした。その時、シッダッタは自分が座っていた地面に手を着き、悟りを開く決意を表しました。そして、とうとう魔王はシッダッタの悟りを阻止することをあきらめ、その場を去っていったのでした。

シッダッタが魔王に勝ったのは、自分の仲間を集め、悪魔一族と戦ったわけではなく、座禅の集中を途切れさせるこなく、その攻撃はただの幻に過ぎないということが分かっていたからです。わたしたちは日常生活において、何か難しいことに直面した際、しばしば無理やりにでも自分の思い通りにしようとすることがあります。誰かに手を出したり、きつい言葉を使うことなく、人や物事を自分の思い通りにしようという考え方はなかなか切り離し難いことです。つまり何かを勘違いしていたり、または何かに固執していると人生において誤った道を進むこととなり、そういう時に魔王が私のところに現れると言えるでしょう。困ったことが重なれば、まさに悪魔一族に攻撃されているような気持ちにさえなる時がありますが、その困難を落ち着いて考えることによって、自分の誤った考え方が苦しみの原因だったと気付くことができるかもしれません。

仏様の教えが示す困難を乗り越える道というのは、無理やりに自分の思い通りにしようとするのではなく、落ち着いて困難に向かい合い、智慧の光が照らす正しい方向に気付くことを示します。サンマテオ仏教会では、「南無阿弥陀仏」の名号を繰り返し口にします。「阿弥陀仏」は「無量の光の仏様」で、「南無」は「帰依する」という意味です。「南無阿弥陀仏」は「無量の光の仏様に帰依します」という意味で、どんなに大変なことがあっても、仏様の智慧の光が常に私の人生を照らし、正しい道を示して下さっていることを意味します。

何かに困った時に、自分の思い通りになるという期待を一度忘れ、落ち着いて考えてみることで、智慧の光が今まで見えていなかった可能性を照らしてくれていることに気づくかもしれません。浄土真宗の宗祖である親鸞聖人のお書きになられた「正信念仏偈」の中に、次の言葉をお聞きします。「わたしもまた阿弥陀仏の光明の中におさめ取られているけれど、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる。」(浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類 一五一頁)

 

南無阿弥陀仏