無言の中に喜びあい

今年の春の訪れに伴い、去年と同様、2021年3月21日にお彼岸法要をインターネットと電話でライブ中継で行います。昨年の3月から今月までの丸一年、私たちは新型コロナウイルス感染拡大を防ぐための規則の中で生活してきましたが、いよいよ予防接種が完成し、すでに予防接種を受けられたご家族や友人らも多くなってきましたし、感染率も減少傾向のようで、希望の光が少し見えてきました。コロナウイルス発生から一年が経ってようやく、戻ることの出来る元の生活の岸が大分はっきり見えてきた気がしますが、私たちがまだまだ疫病の海の真ん中に浮かんでいるのが現実です。

新型コロナウイルスの感染が深刻な時の生活は未知の海を航海するようなものに感じられましたが、人間の長い歴史の流れを振り返りますと、疫病という存在は常にあったと気づくことが出来ます。そして、私たちは生死の海を渡られた先人の方々の智慧をいただくことにより、私たちのために照らされてある彼岸への道を見つけることが出来るでしょう。

1919年、カリフォルニア州中央海岸にあるグアダルーピ(Guadalupe)周辺の農場には、多くの日系移民が働いていました。そして、そのほとんどの人たちは農場の近くにあった住宅やキャンプに住んでいました。その当時、妻を呼んで家族ができるようになると、彼らは農場という場所が子育てや教育を受けるのにふさわしい環境ではないということが分かってきました。そういった日系コミュニティのニーズに対応して、松浦逸清(まつうらいっせい)開教使とその妻松浦(しのぶ)氏は子供たちを次々とお寺に宿泊させながら、現地の学校に通わせ、学校の後は子供達に日本語を教えました。最終的に20名余りの子供が集まったので、政府を通して正式な許可証を得て、そこはグアダルーピ・チルドレンズホームとなりました。

後に松浦忍氏は『悲願』という著書にその当時の思い出を書かれました。その中に次のエピソードが書かれてあり、当時の方々が厳しい現実の中で、御念仏に支えられ暮らしていた姿が述べてあります

、健康なときは安心ですが、時々、流行病の時は心配でねむることも出来ません。麻疹(はしか)(ミズル)、頬張(ほおばれ)れ(マンプス)、水疱瘡(みずぼうそう)(チキンポックス)、百日咳(ひゃくにちぜき)(フィピングカフ)、など一人病みますと、次々と伝染しますので困りました。熱のある苦しい時も、じっと我慢して寝ている子達を、看護していますと、さぞお母さんの所へ、帰りたかろうと、ほろりと致しました。一度、秋子[という女の子]が猩紅熱(しょうこうねつ)(スカーレットフィバー)にかかりました。一か月の隔離(一切外出も出来ず、訪問者も立入禁止)泣くにも泣かず、ただ一心に、姉の仁子と看護しました。お父さんが(母親は早く死亡)、垣の外から、「秋子を頼みますよ。たとえ死にましても、お寺の中ですから本望です、お願いします」と呉々もたのまれる毎日でした。幸い四週間後、全快。他の子供達には予防注射、食物、運動、娯楽、勉強、などに注意しましたお陰か皆元気でした。一か月過ぎて、父兄達が早速かけつけて下さった時は、無言の中に喜びあい御念仏のお陰と合掌せずには、おられませんでした。

(松浦忍著『悲願』 184頁)

この話を通じて、御念仏がこれまでアメリカで代々多くの方の力になっていたことがうかがえます。松浦開教使のご婦人と姉の仁子さんが病気にかかった秋子さんに寄り添う姿に、仏様の慈悲が現れています。私も父親として、秋子さんのお父さんが毎日お寺の垣越しに訪ねる親心に感動しました。秋子さんのお父さんは娘さんのことを深く思いやると同時に、秋子さんが仏様と一緒にお寺にいることに安心を得ていました。その御念仏の力によって、何が起こっても、安心して向き合うことができたのでしょう。最も恐ろしい死の可能性に向き合うことができたからこそ、再会できた時はなおさら共に生かされている命の有り難さを心から喜ぶことができたことでしょう。

南無阿弥陀仏