釈迦様にいただく安心

二月は釈迦様の入滅を偲ぶ法要、涅槃会を行います。釈迦様は自身が入滅することにより、生まれる者は必ず死に至るという人間の姿を示されました。このようにいつかは死に至る限られた人生を生きる私たちは、どこに生きる目的を見つけたらよいのでしょうか?世の中を見ていると、名誉や利益のために生きている人も多いと感じることがあります。このことについて、親鸞聖人でさえ正像末和讃に次の言葉を述べてあります。

是非(ぜひ)しら​ず(じゃ)(しょう)もわか​ぬ

この​み​なり

(しょう)()(しょう)()も​なけれ​ども

(みょう)()(にん)()を​このむ​なり

ものごとの善悪も、 正しいことやよこしまなことの区別もつかない

この身である。

わずかばかりの慈悲さえもっていない身でありながら、

名誉や利益を求めて人の師となることを望むのである。

世の中で名誉と利益が人生の中心になってしまうことは親鸞聖人の時から今まで変わっていません。親鸞聖人のこの言葉を読むと、私も名誉と利益に振り回されているその一人だという気がします。

インターネット時代の今、多くの人がソーシャルメディアで自分のイメージを管理することに忙しく、「いいね」という反応を集めることで誰でも名誉を感じることができるため、中毒的に多くの人がそれに多くの時間を費やしてしまっています。名誉のために生きていると、人にどう評価されているかが気になり、心や物事に対する視野が狭くなってしまうことがあります。「ある人に注目が集まっているという事は、もしかすると私は無視されているのではないだろうか」と心配になったり、「周りの誰かが褒められたということは、私の評判が低いということなのではないだろうか」と周りの人を嫉妬してしまうことさえ起こりえます。名誉を求めると切りがなく、名誉によって安心を得るというよりも、むしろ逆に不安になることが多いようです。

利益のために生きると命の尊さを忘れてしまう恐れがあります。現代の社会は、利益を集める経済力によって人生の価値をつける傾向があり、学校の先生やケア・ギバーなど人のために働く人たちの生活は厳しくなっています。それに加えて、人工知能(AI)の発展に伴い、ある仕事はA Iが取って代われる可能性があるので、ビジネス面では人件費の削減につながり会社の利益向上が見込めるものの、もし今自分がしている仕事が要らなくなると、自分の職員としての価値がなくなるのではと心配している人も沢山いるようです。自分だけの利益を求め始めると、それも切りがなく、利益によって安心を得るというよりも、逆に不安になります。

凡夫は名誉と利益に迷い不安になります。釈迦様は凡夫に本当の安心を与えるためにこの世に現れたことについて、親鸞聖人は「正信念仏偈」に次の言葉を述べてあります。

如来が世に出られるのは、 ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためである。

五濁の世の人々は、 釈尊のまことの教えを信じるがよい。

阿弥陀如来の本願は全ての人々を分け隔てなく救う誓いです。名誉というのは名誉により知られている人と知られていない人を分け隔てます。利益というものは裕福な人と貧乏な人を分け隔てます。釈迦様はこの名誉と利益の世界に迷い苦しんでいる私たちのために本願の教えを説かれました。

私たちの人生は、決して名誉と利益によってだけ尊くなる訳ではありません。本願に出会える人生そのものが苦しみから救われる尊いものです。私たちが日頃耳にする「南無阿弥陀仏」のお念仏は、阿弥陀仏が「あなたを必ず救います」という仏様の呼び声です。そして、私たちが口にする「南無阿弥陀仏」とは、仏様の呼び声を聞き信じることで湧き出る「お救いいただきありがとう」という喜びと感謝を表す声です。釈迦様はこのお念仏の安心を私たちに与えるためにこの世に現れてくださったのです。

南無阿弥陀仏