仏種

2018年4月8日に花まつりの法要をお勤めしますので、是非ご一緒にお参りください。花まつりというのは2,641年前にネパールにあるルンビニの花園でお生まれになったゴータマ・シダッタ王子の誕生日をお祝いする日です。シダッタは35歳の時に菩提樹の下で悟りを開き、人生の残り45年間の間、人々が苦しみから解脱できる道を広く説かれ、多くの人々をお救いになりましたので、釈迦牟尼仏陀(釈迦族の聖者)と敬称されるようになりました。

仏法の智慧と慈悲によって人生の歩むべき道が照らされている人々にとって釈尊は大いなる英雄であり、その説かれた教えは代々迷いの世界に苦しむ人々を極楽へと導く灯火となっているのです。現在の世の中に見える様々な迷いと苦しみを考えますと、釈尊がこの世に現れになったことを喜び、先にお念仏の道を歩まれた方々の導きに対しての感謝の気持ちが湧いてきます。

1952年から1955年までサンマテオ仏教会に赴任されていた開教使田名大正師は私のヒーローの一人です。1941年、日米間の戦争が始まった当時、田名先生はカリフォルニア中央海岸にあるランポークにて活躍されていました。戦争が始まると、日系コミュニティのリーダーは皆疑われ、細かく捜査されました。犯罪や反アメリカ活動を行なった証拠は見つけられなかったにもかかわらず、大勢の方が収容されました。田名先生もその一人でした。

田名先生は3月13日に収容され、3月14日にキリスト教の牧師、他の開教使を含め12人と共にトラックに乗せられ、ロサンゼルスの方へと向かって出発しました。 最初はロサンゼルスの北側にあるサンガブリエル山脈の中のタハンガ(Tuna Canyon)という市民保全部隊(Civilian Conservation Corps)のキャンプに収容されました。タハンガのキャンプに到着後、最初の朝食はブラックコーヒーとオートミールだけでした。オートミールは特に美味しくなかったようですが、その日はその一食だけしかもらえないという噂が流れていたので、仕方なく完食したと田名先生は日記に残されています。

その時点では日系人の多くはまだ収容されていなかったため、午前9時からの面会の時間があり、ロサンゼルス周辺から大勢の家族や友人らが訪ねてきていたそうです。面会に訪ねた人たちは美味しい食べ物を余るほど沢山持って来ていたので、収容された人たち皆でそれを分け合って立派なご馳走をいただいていたそうです。そんなにご馳走が食べれることを前持って知っていたなら、無理してオートミールを全部食べなければよかったと田名先生は後に述べておられます。

3月26日、タハンガに収容されていた人たちはニューメキシコ州サンタフェにあった司法省が経営していた収容所に移動させられました。25時間も砂漠を走った列車の旅を終え、皆が住んでいた南カリフォルニアの温暖な気候と全く違う環境の土地に辿り着きました。朝夕冷えるので、田名先生の出身地である北海道の春の上旬を思い出したと述べられています。田名先生のその当時の日記を読みますと、次はいつ、どこに移動させられるか分からない将来についての不安な気持ちがよく伝わってきます。

サンタフェの収容所ではアメリカ各地の開教使が集まったので、迷いの日々の中でも、田名先生にとって仏法が何よりの安心のよりどころであったことが述べられています。1942年4月8日の日記には、司法省の収容所の中で営んだ花まつりについて次のように書かれています。

今日は釈尊降誕の佳日である。午後七時からキャンプの食堂で、「花まつり」法要を営む筈である。

日米戦争が因縁となって、太平洋沿岸の仏教徒が、仏を背負うてロッキー山脈を間近に眺め得る地にまで来て、此処で如来の出世を讃仰するのは、仏教東漸の金言を思う時感慨深きものがある。

今後何日まで此処に滞在するかは、長短ともに未知数であるが、現在六百三十人、将来千五百人の日本人が収容されたとしたら、約半数は仏教徒である事を思い、随時法莚の開かれる事を予想して、仏具を取り寄せる手続を妻に申送った。日本人のいなくなった太平洋沿岸の仏教会は、差当り廃爐となるかもしれないが、一度移植された仏種は、戦争の大風に送られて、米大陸を東へと運ばれて、正しく法花を開こうとしている。

(『サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記』136)

私たちが今年の花まつりを営む際、釈尊がこの世に現れになったおかげで私たち一人一人が歩ませていただいている人生を省みながら、釈尊が私たちのために無量寿経に説かれた本願念仏をよろりどころとし、極楽往生に向かっている人生を共に歩みましょう。

 

南無阿弥陀仏