人々を救おうとする仏の深い誓い

1206年の十二月、後鳥羽上皇が熊野に参詣のため留守の間、上皇の女房である鈴虫と松虫は法然門下の安楽房と住蓮房の専修念仏の集いに参加していました。女房らはお念仏の教えを聞いた後、心が転換し、そこで出家したそうです。

鈴虫と松虫が出家したことを知ると、上皇は腹を立て、安楽房と住蓮房を含めた法然聖人の門下四人を死罪に処し、法然聖人と親鸞聖人を含めた八人を流罪にしました。法然聖人は四国の方に流罪となり、残りの七人は僧籍を取られ、越後や九州、日本中に配流されました。その時、法然聖人の門下は悲しく思いましたが、法然聖人はこれもお念仏のご縁ですとお教えになられたそうです。法然聖人は流罪になった時、次の言葉を述べられています。

流刑は、決して恨みに思ってはなりません。その訳は、私の年齢はもう八十に近くなっています。たとえ師弟が同じ都に住んでいても、この世の別れはきっと近くにあります。たとえ山や海を隔てようとも、浄土での再会をどうして疑いましょうか。また、この世をいとうといっても、生き永らえるのが人間の身です。惜しんでも死ぬのは人間の命であります。どうして住んでいる場所によることがありましょうか。そればかりでなく、念仏を広め行うことは、京都では長い年月を経ました。だから地方へ行って農民たちに念仏を勧めることは長年の願いでありました。しかし、その時が到来しないで、願いを果たしていません。このたびの縁によって年来の本意を叶えることは、実に朝廷のご恩だと言えます。この教えが世に広まることは、人がおしとどめようとしても、教えは決してとどまるものではありません。諸仏は人びとを救おうとする誓いが深く、人の目に見えない諸天は仏法を守護する約束を固くしています。それゆえ、どうして世間の非難に遠慮して経文や釈文の真意を隠すことが出来ましょうか。ただし、心を痛めていることは、わたくし源空がおこした浄土の法門は、濁世末代の人びとが間違いなく迷いの世界を抜け出す大事な道でありますから、常に従って守る天の神・地の神や、目に見えない神仏が、きっと非道な妨げをおとがめになるのではないかということです。命あるものは、この因果の道理が間違いないことに思いをいたすべきでしょう。因縁が尽きなければ、どうしてまた今生で再会することがないでありましょうか。」

(『現代語訳 法然上人行状絵図』第三十三巻 第三段)

法然聖人が流罪になった時、きっと門弟たちは怒りと恨みの思いを抱いていたことでしょう。しかし、親鸞聖人と他の門弟たちは法然聖人の教えを疑いなくいただいていたおかげで、流罪がご縁となって、お念仏は京都だけでなく、越後、関東、九州など日本各地に響くようになりました。この流罪の不道が仏法が広まるご縁となったのです。現在においても不道の事件は次々と起こりますが、法然聖人と親鸞聖人のように仏法の真実をよりどころとすれば、阿弥陀如来の智慧と慈悲の働きによって私たちの人生をはじめ、この世の中は安穏になるのです。

南無阿弥陀仏

無言の中に喜びあい

今年の春の訪れに伴い、去年と同様、2021年3月21日にお彼岸法要をインターネットと電話でライブ中継で行います。昨年の3月から今月までの丸一年、私たちは新型コロナウイルス感染拡大を防ぐための規則の中で生活してきましたが、いよいよ予防接種が完成し、すでに予防接種を受けられたご家族や友人らも多くなってきましたし、感染率も減少傾向のようで、希望の光が少し見えてきました。コロナウイルス発生から一年が経ってようやく、戻ることの出来る元の生活の岸が大分はっきり見えてきた気がしますが、私たちがまだまだ疫病の海の真ん中に浮かんでいるのが現実です。

新型コロナウイルスの感染が深刻な時の生活は未知の海を航海するようなものに感じられましたが、人間の長い歴史の流れを振り返りますと、疫病という存在は常にあったと気づくことが出来ます。そして、私たちは生死の海を渡られた先人の方々の智慧をいただくことにより、私たちのために照らされてある彼岸への道を見つけることが出来るでしょう。

1919年、カリフォルニア州中央海岸にあるグアダルーピ(Guadalupe)周辺の農場には、多くの日系移民が働いていました。そして、そのほとんどの人たちは農場の近くにあった住宅やキャンプに住んでいました。その当時、妻を呼んで家族ができるようになると、彼らは農場という場所が子育てや教育を受けるのにふさわしい環境ではないということが分かってきました。そういった日系コミュニティのニーズに対応して、松浦逸清(まつうらいっせい)開教使とその妻松浦(しのぶ)氏は子供たちを次々とお寺に宿泊させながら、現地の学校に通わせ、学校の後は子供達に日本語を教えました。最終的に20名余りの子供が集まったので、政府を通して正式な許可証を得て、そこはグアダルーピ・チルドレンズホームとなりました。

後に松浦忍氏は『悲願』という著書にその当時の思い出を書かれました。その中に次のエピソードが書かれてあり、当時の方々が厳しい現実の中で、御念仏に支えられ暮らしていた姿が述べてあります

、健康なときは安心ですが、時々、流行病の時は心配でねむることも出来ません。麻疹(はしか)(ミズル)、頬張(ほおばれ)れ(マンプス)、水疱瘡(みずぼうそう)(チキンポックス)、百日咳(ひゃくにちぜき)(フィピングカフ)、など一人病みますと、次々と伝染しますので困りました。熱のある苦しい時も、じっと我慢して寝ている子達を、看護していますと、さぞお母さんの所へ、帰りたかろうと、ほろりと致しました。一度、秋子[という女の子]が猩紅熱(しょうこうねつ)(スカーレットフィバー)にかかりました。一か月の隔離(一切外出も出来ず、訪問者も立入禁止)泣くにも泣かず、ただ一心に、姉の仁子と看護しました。お父さんが(母親は早く死亡)、垣の外から、「秋子を頼みますよ。たとえ死にましても、お寺の中ですから本望です、お願いします」と呉々もたのまれる毎日でした。幸い四週間後、全快。他の子供達には予防注射、食物、運動、娯楽、勉強、などに注意しましたお陰か皆元気でした。一か月過ぎて、父兄達が早速かけつけて下さった時は、無言の中に喜びあい御念仏のお陰と合掌せずには、おられませんでした。

(松浦忍著『悲願』 184頁)

この話を通じて、御念仏がこれまでアメリカで代々多くの方の力になっていたことがうかがえます。松浦開教使のご婦人と姉の仁子さんが病気にかかった秋子さんに寄り添う姿に、仏様の慈悲が現れています。私も父親として、秋子さんのお父さんが毎日お寺の垣越しに訪ねる親心に感動しました。秋子さんのお父さんは娘さんのことを深く思いやると同時に、秋子さんが仏様と一緒にお寺にいることに安心を得ていました。その御念仏の力によって、何が起こっても、安心して向き合うことができたのでしょう。最も恐ろしい死の可能性に向き合うことができたからこそ、再会できた時はなおさら共に生かされている命の有り難さを心から喜ぶことができたことでしょう。

南無阿弥陀仏

真実の智慧を依りどころとし、 人間の分別に依ってはならない

2月は釈迦牟尼仏陀がこの世で最後の息を吸い入滅寂静を遂げられたことを記念する涅槃会をお勤めします。この涅槃会で私たちは、生を受けるものは必ず死に至るという真実に気づくことができます。悟りを開いた釈迦牟尼仏陀でさえ死に至ったということは、いつまでもこの生命を伸ばすというのは仏法の目的ではないことを明らかにしています。つまり、お釈迦さまは自分自身で諸行無常の道理を示されたのです。 

仏法は、このいただいた人間としての生を充実したものにし、心安らかに死と向き合える力を与えてくださいます。ちょうど昨年の今頃、初めて新型コロナウイルスの感染者がここ西海岸にも出たニュースを聞きましたが、それから一年の間に人生のありがたさに気づかされたことが何度もありました。その度に「私は極楽往生への落ち着いた心をいただいているだろうか?」という自分自身への問いがわきました。

私の心の様子を考えますと、自分の欲しいものを追いかける日々の繰り返しが殆どという気がします。例えば、昨年初春頃、新型コロナウイルスが広まり始めていたときにはトイレットペーパーや手の消毒ジェルを買うのに必死になっていましたし、最近で言いますと、どんどん背が伸びている長男の新しい自転車を買うことに焦っていました。新型コロナウイルス発生以降、皆な外で出来る楽しい運動を探しているため、自転車はとても人気のアクティビティになっています。特に、体育館の閉鎖や、サッカーの練習が中止になっている今の時期は、多くの家族が子供に新しい自転車を買っているようで、自転車がなかなか手に入らないものになってきました。このように自分が欲しいものがなかなか手に入らない時には、何としてもそれを手に入れようと必死に調べ、自分の利益を求めるための工夫やはからいが色々出てくるものです。私はサンフランシスコからパロアルトまでのあらゆる自転車屋に電話を掛けましたが、息子のサイズの自転車は皆売れ切りで、どこも今度いつ入荷するか分からないと言われました。一か八かで、サンマテオにあるとても小さな自転車屋に電話をかけてみると、コンディションがいい中古の一台があると聞いて急いでその店に向かい、迷わずすぐに購入しました。

反対に、自分が欲しいものを追いかけていない時には、イヤなものを避けようとする傾向にあるように思えます。例えば、自分と違う意見を持つ人とはなるべく触れ合わないようにしていたり、自分が読むニュースや聞くポッドキャスト、そして見るウェブサイトは皆自分の考え方を肯定するもので、違う視点のメディアからの情報を得ようとしていません。世界の本当の様子を理解するというよりもむしろ、私と異なる考えを持つ人に全く耳を傾けていないのです。

このような、追いかけたり避けたりする日々の中で、人生の無常とありがたさに気づかされることがあります。今朝のニュースによると、新型コロナウイルスの感染による死亡者数は、世界全体で2,077,628人に達し、アメリカでは406,196人、カリフォルニア州では35,068人、サンマテオ郡では309人の方が亡くなられたとのことです。皆さんがこのニュースレターを読むまでの間にも、コロナウイルスの感染が原因で往生された方はさらに増加していることでしょう。まさに蓮如上人が記された「白骨章」にある「おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。」とのお言葉が思い浮かびます。

この諸行無常の世の中で、お釈迦さまの教えは安心に至る道を照らして下さいます。

釈尊はまさにこの世から去ろうとなさるとき、 比丘たちに仰せになった。 「今日からは、 教えを依りどころとし、 説く人に依ってはならない。 教えの内容を依りどころとし、 言葉に依ってはならない。 真実の智慧を依りどころとし、 人間の分別に依ってはならない。 (省略)真実の智慧を依りどころとするとは、 真実の智慧に依れば善と悪とをよく考えてその違いを知ることができるが、 人間の分別は常に楽しみを求め、 さとりへ向かう正しい道に入ることができないということである。 だから、 人間の分別に依ってはならないといったのである。」

(浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類 現代語訳 530〜531頁)

私の分別する心は、常に楽しみばかりを求め、先入観と偏見に惑わされて、本当の善悪の違いを見極めることができているとは言い難いです。それゆえ、私の迷いの暗闇を滅ぼし、人生の歩むべき道を照らして下さる仏様の智慧の光に深く感謝いたします。

南無阿弥陀仏

松竹梅

まさに異例であった2020年がようやく終わりを迎え、2021年を新たに迎えるにあたって、家に門松やしめ飾りなどの正月飾りをされているご門徒さんもおられると思います。正月飾りに使われる松、竹、梅は、日本ではお祝いの場面でよく登場します。この松竹梅ですが、我が家にあった『「和」の行事えほん』(高野紀子 作)によると次の説明がありました。

松竹梅(しょうちくばい)は「歳寒三友(としかんさんゆう)」ともいわれ、「冬の寒さにたえるたくましい三本の木」という意味があります。

松は、冬も青々としていることから、竹は、雪の重さにも折れないしなやかさから、梅は、早くさいて春のおとずれを知らせる、ということから、めでたい木の代表となりました。(41頁)

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暗闇にも智慧の光明あり

最近めっきり日が短くなり、ベイエリアにも曇った日が増えきて、いよいよ冬の暗闇がやってきたなと感じています。世界中の人々は、特にこの暗闇の時間が長くなる冬の季節に、聖なる教えに説かれてある智慧に目を向ける傾向にあるように思います。日本仏教の各宗派において12月は釈迦牟尼仏が菩提樹の下で悟りを開いたことをお祝いする月であり、日々私たちが人生のよりどころとしているお釈迦さまの智慧の光の有り難さをあらためて認識することができます。

新型コロナウイルスが世界中に急増している今年の冬は、空だけが暗くなっているのではなく、私の心も暗くなってしまう時があります。年末年始が近づいてくると、家族や友達を家に招いて一緒に楽しい時間を過ごしたいという欲が心に浮かんできます。ここ数年はお正月に友達家族数軒を呼んで、ダイニングテーブルの周りにぎゅうぎゅうに座ってわいわい笑ったりしゃべったりするのが恒例になっていました。この時は家中に賑やかな話し声と子供達の楽しそうな遊び声が響きます。子供たちは食べることよりも遊びに夢中ですが、たまにテーブルのところには来て好きな食べ物をつまむ姿は可愛いものがあります。

今年の春、コロナウイルスの影響で生活が一転してしまった時、私は、きっと年末までには普通の生活に戻るだろうと事態を甘くみていました。いくつかの国では感染がだいぶ落ち着いてきているようですが、感染が激増しているアメリカの現状を見ると腹が立って事態を誰かのせいにしたくなる時があります。

私自身や家族がウイルスにかかることが怖くて、買い物の際、お店を出る時はしっかり手を消毒しますが、お店に入る前にも同じように気をつけているでしょうか。私は人からバイ菌をもらう危険はよく意識していますが、自分もバイ菌を振りまいている可能性があることを意識していない時があります。これこそ無知(無明)と言えます。

欲・怒り・無知、この三つは仏様の教えにおいて、三垢もしくは三毒の煩悩と言われています。そして仏様の教えにおいて、この三垢は苦しみの原因とされています。欲・怒り・無知の深みに沈めば沈むほど、自分が住んでいる世界が暗くなります。

お釈迦様の言葉が書き示されている『仏説無量寿経』に、すべての人々は阿弥陀如来の名号(南無阿弥陀仏)を聞くことにより仏様の智慧に出会うことが出来ると説かれてあります。そして、この南無阿弥陀仏とは「はかり知れない智慧と慈悲の光を与えてくださる阿弥陀如来を拠り所にする」という意味で、『仏説無量寿経』には「この光明に照らされるものは、 煩悩が消え去って身も心も和らぎ、 喜びに満ちあふれて善い心が生れる。」と説かれてあります。(『浄土真宗聖典 浄土三部経 現代語訳』50〜51頁)

ここで言う「身を和らげる」とは、すべての人々のために慣れない事情にも嫌がらずに順応できる力と言えるでしょう。例えて言うと、コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、冬休み中に動物園に出掛ける時はマスクをつけたまま何時間も歩き回ることを覚悟しておくこと、年末年始に友人に会う時は暖かいけれど家の中で大勢で集まることは避けて屋外で少人数で集まる方が感染の確率が低いと意識することで、多少寒くて雨っぽい日でも友達家族一軒だけとの公園でのピクニックに決めることも、身を和らげた行為といえるでしょう。

穏やかな心とは、融通が効かない自己中心的な考えから解放されて、他人の苦しみを思いやる余裕のある心とも言えるでしょう。例年通りであれば、年末年始の集いの多くなるこの時期ですが、コロナウイルスにかかって苦しんでいる人達やコロナウイルスの拡散を遅らせるための対策の影響によって失業し困っている人達がいることにも心を向けられる穏やかな心を持ち続けたいものです。

親鸞聖人は、お釈迦さまは欲・怒り・無知の暗闇に沈んでいる私たちを阿弥陀如来の智慧の光明へと導くためにこの世に現れたと書き示されています。異例の事態となった暗黒な2020年ももうすぐ終わろうとしていますが、すべての人々が智慧の光明に導かれ、心身ともに穏やかに過ごせますように願っております。

南無阿弥陀仏

コロナウイルス大流行の中にも感謝

この記事を書いている今、アダムス小学校は秋休み中です。8月半ばから新学期が始まったものの、新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、引き続き自宅でリモート学習が行われています。子供たちは平日、テレビ電話で授業を受け、パソコン上で課題をしたり、手書きした課題を写真に撮ってクラスルームウェブサイトに提出したりする日々の繰り返しでしたが、今週はしばし勉強から開放されて、のびのび庭で侍ごっこをしたり、州立公園でハイキングや川遊びを楽しんだり、ビーチに行ったりしてとてもリフレッシュできました。

おかげさまで家族全員は健康ですし、幸い私たちが住んでいるエリアは最近アメリカで頻繁に発生しているハリケーンや山火事を心配しないでいいのでありがたい事だと分かっていながらも、新型コロナウイルス感染拡大防止ための方針に真面目に従いながら、日常生活を送るのにだんだん疲れてきているのも正直なことろです。今年は、毎年子供たちが楽しみにしているトリック・オア・トリートがないハロウィーンや、家族や友達らと楽しく集うことが出来ないサンクスギビングやお正月を考えますと、気分が沈んで、感謝の気持ちがなかなか起きてこない時もあります。

このように今年は皆の安全のために色々な楽しい行事が中止になったり、皆さんが好きな色々なアクティビティができなくなってはいますが、それでも今まで通りに郵便物やパッケージは無事に届き、ゴミも時間通りに回収され、子供の教育も継続され、私たちの食卓に並ぶ農作物が収穫され、スーパーマーケットも毎日営業されています。これら社会の基本的な動きが続けられているのも多くの方々がこの大変な事情の中でも頑張って働いてくださっているからです。そして、それら私たちのために働いてくれている方々の中には仕事の危険さの割合に対して安い給料で働いている方も少なくありません。サンマテオ郡の衛生局長モロー・スコット医師はこの事実について、次のように述べられています。

最近新型コロナウイルスに感染されている患者の大部分は、私たちを食べさせたり、私たちの家に電気を巡らせたり、ゴミの回収をするため最前線で働いてくれている方々です。そして、その人たちの多くは狭い家に多世代大人数で暮らしており、政府に対しての信頼がなく、むしろ政府を怖がっています。この非常に広まりやすいウイルスの流行を防ぐために、感染者は外出をせずに、仕事も休んで、隔離される必要があります。しかし、感染者が一家の稼ぎ手で、もし仕事に行かなければ家賃を払えなくなり住むところがなくなり、家族を養えなくなる場合には感染者の隔離を守ることは難しくなるでしょう。

このように最前線で働いてくれている方々だけでなく、その家族らもこの疫病の矢面に立たされているのです。

新型コロナウイルスの流行が始まった時点から、医療従事者はこれまでずっと勇敢に感染者の治療を続けてくれています。これら医療従事者らは命懸けで患者のケアを行い、ウイルスの研究をして、正しい情報を伝えようと日々尽力されています。中国湖北省武漢市にある武漢市中心医院に勤務していた医師李文亮(りぶんりょう)氏は昨年12月30日にこのウイルスの危険さについて他の医師らに警告しましたが、その後、彼自身もウイルスに感染し、2月7日に亡くなられました。

ウイルスの流行を防ぐための方針を守ることは、私たちのために最前線で働いてくれている方々への感謝を表す方法の一つです。その方針を守る方法としてまず推奨されている、出掛ける際にはいつもマスクを着用すること、そして人との距離を6フィート(2メートル)保つことを実践、そして継続するためには、他人に対しての思いやりや注意力、努力などの功徳が身についていないと難しいかもしれません。仏様はその功徳を成就するためには自己中心的な考え方を手放す必要があると説かれています。

自己中心的な考え方を手放すというのは、「こんなにたくさんのルールを守るのは面倒臭い」といった自分が中心の考え方から「多くの方々が私の命を支えて下さっている」といった自分の周りの人たちや物事を中心とした考え方に転回するということです。このように考え方を転回出来た時、私たちの心の中に感謝の扉が開き、私たちは常に仏様の智慧に照らされていることに気づくことが出来るのです。マスクを着用して、私もここに感謝の念仏を申します。 南無阿弥陀仏

片手かけたり

              サンマテオ仏教会では毎年10月上旬にペット・植物追悼法要を行います。これは可愛がっていたペットを偲んだり、仏前にお供えする花々をはじめ、私たちの命を支えてくれている植物の命に対しての感謝の気持ちを表すためのお参りです。今年の法要は2020年10月4日の9時半からオンラインで予定されています。

              仏前にお供えする花々は、私たちの人生の導きとなる仏様の教えへの感謝の気持ちを表しています。新鮮で元気な状態でお供えする花々は日が経つにつれ枯れたり、散ったりすることによって、全ての命は無常であることを教えてくれているのです。

              ペットを飼っている方の中には、そのペットに対して家族のような愛情を持っている方が少なくないでしょう。そのため、ペットと別れる時の悲しみと寂しさは深いに違いありません。このように命が無常であることに気づかされるその時こそ、仏様の教えに耳を傾けるご縁の時であり、私たちが今日ここに生かされていることは誠に不可思議で大変有り難いことだと改めて実感することができるのです。

              昨年のある日、息子たちが家に飛び入ってきて、「お母さん!お父さん!早く来て!大きいカマキリが裏庭にいるよ!」と興奮して言うので、それまで野生のカマキリを見たことなかった私は、カマキリを是非見たいと思い、急いで息子たちの後について裏庭に行きました。庭に出ると、10センチくらいのとても大きいカマキリがパティオにいました。これまで見たカマキリの中で一番大きいカマキリが自分の庭にいたことに私はとても感動しました。

              実はその野生のカマキリを裏庭で見つけた数年前の三月頃、私たち家族はナーサリーで長男が見つけた容器に二つ入っているカマキリの卵しょうを買って家で育ててみることにしました。私はカマキリが孵化すれば、私たちが庭で育てている野菜を食べる虫を減らしてくれる便利なペットになるだろうと思っていました。そして約一週間後に、その卵しょうから孵化した何百匹もの極小のカマキリ達が一斉に出てきました。孵化した後すぐに裏庭の茂みに放しましたが、カマキリ達は共食いをしたり、鳥に食べられたりして、残念ながらその数はすぐに激減してしまいました。初夏の時点で、もう庭でカマキリの姿を見るのが珍しくなっていました。そして最後に見かけたのは6月で、長さ3センチメートルぐらいのものが一匹だけでした。

              カマキリが孵化した時のその小ささとその命のはかなさを見た後で、長さ10センチものカマキリが自分の庭に現れたのはどれほど不可思議なことかと私は実感しました。この時私は、お念仏を喜んでいた小林一茶の次の俳句を思い出しました。

蟷螂(とうろう)片手(かたて)かけたりつり(がね)

私たちは人生の中で無常の風が常に吹いていることに気づかされる時があります。毎日安全で安定した暮らしをするために頑張っているにもかかわらず、実はその命はつり鐘に片手でかかっている蟷螂(かまきり)のようにはかないものなのです。

私は仏様が説く諸行無常を、今年の新型コロナウイルス、そしてこの9月上旬に始まった西海岸に広まっていた記録的な山火事で改めて気づかされました。今の世の中に生きるのは大変ですが、命が無常であることに気づき、仏法に耳を傾けるご縁に恵まれたことに心から感謝します。親鸞聖人の「教行信証」に次の言葉があります。

今、人として生まれたとことを考えると、それは実に得がたいことである。

このことは、たとえば、優曇華がはじめて咲くようなものである。

今まさに、聞きがたい浄土の教えを聞く縁に会うことができた。

今まさに、念仏の教えが説き開かれるときに会うことができた。

(浄土真宗聖典『顕浄土真実教行証文類』現代語訳 82頁)

今日、私たちがここに生かされているのは誠に不思議なご縁です。私たちはこの尊い命をどう過ごせばよいでしょうか?私はお念仏の教えに耳を傾け、ただ南無阿弥陀仏を申します。

南無阿弥陀仏

立ち上がっていく力

毎年、盂蘭盆会と初盆法要の時期を迎えるたびに、別れの悲しさの中にも安らぎを与えてくれるお念仏の力に気づかされます。毎年、サンマテオ仏教会のお盆の行事が終わると、もうその次の週に私の息子達の学校が始まるので、私にとってお盆が終わると夏が終わったという気持ちになります。異例の今年の夏は、初盆法要の後片付けをしながら、新型コロナウイルスが終わったらお供えのおまんじゅうをいつか皆で食べるために取っておこうと思い、久しぶりに仏教会の冷凍庫を開いてみると、大量のハンバーガーパティが入っていて、毎年の仏教会の夏のピックニックの時に食べるハンバーガーの美味しさを思い出して、今年の夏に出来なかった仏教会の行事が次々と思い浮かんできました。私にとって夏の始まりであるバザー、仏教婦人会が七月に行うコルマ日本人共同墓地のお墓参り、そのお墓参りの後のサウスサンフランシスコのデニーズレストランでの婦人会の方たちとのブランチ、四年ぶりに企画していた家族との日本旅行、仏教会のサマー寺子屋、盆踊りの練習の時に食べるスパムむすび、仏教会の本堂が満堂になる盂蘭盆、そして、初盆の参拝者の方々と一緒に唱えるお経の響きの全ては、残念ながら今年の夏は経験することが出来ませんでした。

今年の初盆法要の際、私は先亡者のお名前を聞きながら、その方々との思い出と仏教会の夏の行事の思い出とが重なり次々と思い出されました。同時に、楽しみにしていた夏の行事が全て出来なかったことに対しての悲しさや虚しさを感じもしました。愛別離苦(愛している人や物事から離れる苦しみ)というのは皆が必ず会う八つの苦しみのうちの一つであり、それは、釈迦牟尼仏が悟りを開いた後、初めて説教された時に説かれた四諦の教えに詳しく述べられてあります。釈迦様の教えは私たちが苦しみから解放されるために説かれた教えであり、お盆、初盆、お彼岸などの大法要の際に仏様の智慧の光を仰ぐことによって、悲しみや苦しみの中にも安らぎをいただくことが出来ます。現状では、テレビ電話や電話でのお参りが主で最も安全な方法で以前のお参りと異なりますが、それでもこのお盆の季節に心に安らぎを与えてくれる有難いご縁の一つになったと言えるでしょう。

不急不要外出禁止令が初めて発表されたのは今年の3月の春季彼岸会の直前でした。それから半年経つ2020年9月20日(日曜日)に、秋季彼岸会をオンラインにてお勤め致しますが、今年の春と秋の彼岸の間の生活はずっと新型コロナウイルスに大きく影響されるものとなってしまいました。仏教において、彼岸はこの苦しみの世界(此岸)から仏様の悟りの世界(彼岸)に渡るという意味を表しています。先月8月の盂蘭盆会の際、桑原浄信先生はお念仏によって仏様の悟りの世界が私たちに働きかけてくれることについてお盆のご法話をしてくださり、「念仏もうすところに立ち上がっていく力が与えられる。」という西元宗助先生のありがたい言葉を紹介してくださいました。仏様が苦しんでいる私たちを救いたいというお心は南無阿弥陀仏という形になり、今日の私たちにまで届いて安心を与えてくださっているのです。

新型コロナウイルスの緊急状態もいつか終わる時が来るでしょう。形は多少変わるかもしれませんが、仏教会のありがたい行事もいつか必ず戻ってきます。その時はお念仏の仲間と共に立ち上がっていくことを楽しみにしています。ツインシティズの土屋トッド先生(歌詞)とサクラメント別院の水島コウイチさん(出演)が「ハミルトン」というミュージカルに基づいて製作したパロディーのYouTubeビデオにそのお念仏申すところに立ち上がっていく力が表現されています。土屋先生が書かれたその歌詞の翻訳は次の通りです。

私たちは今度会う時に、きっと笑う

我慢したことは価値があったからだ

以前に大変なことは色々あったにもかかわらず

私たちの仏教会はまた立ち上がってきたのは

無量の慈悲のお陰であったのです。

南無阿弥陀、南無阿弥陀仏

ただ念仏を申すのが良い

南無阿弥陀仏

帰省

日本では、通常、お盆の時期は多くの人たちが実家に帰省するため一年の中で交通量が最も忙しくなる時期の一つです。毎年この時期は、サンマテオ仏教会でも多くの方が盆踊りの練習や盆踊りのために一年ぶりに仏教会に来てサンガとの絆を大切にします。毎年の初盆法要では、前年のお盆以降に往生された方々を偲ぶため、遠方からお参りに来られるご家族らもおられ、多くの方がご参拝に来られます。残念ながら今年の初盆は、新型コロナウイルスの感染を防ぐために仏教会に集まることが出来ませんが、その代わりに8月9日(日曜日)にオンラインと電話で盂蘭盆及び初盆法要を行います。この異例の今年のお盆の迎え方は、この時期の帰省の意義を考えさせてくれます。

盂蘭盆会(お盆)という仏教の行事は釈迦様とその弟子の目犍連尊者の話に基づいていると言われています。目犍連尊者は母親へのご恩の気持ちが深く、

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