片手かけたり

              サンマテオ仏教会では毎年10月上旬にペット・植物追悼法要を行います。これは可愛がっていたペットを偲んだり、仏前にお供えする花々をはじめ、私たちの命を支えてくれている植物の命に対しての感謝の気持ちを表すためのお参りです。今年の法要は2020年10月4日の9時半からオンラインで予定されています。

              仏前にお供えする花々は、私たちの人生の導きとなる仏様の教えへの感謝の気持ちを表しています。新鮮で元気な状態でお供えする花々は日が経つにつれ枯れたり、散ったりすることによって、全ての命は無常であることを教えてくれているのです。

              ペットを飼っている方の中には、そのペットに対して家族のような愛情を持っている方が少なくないでしょう。そのため、ペットと別れる時の悲しみと寂しさは深いに違いありません。このように命が無常であることに気づかされるその時こそ、仏様の教えに耳を傾けるご縁の時であり、私たちが今日ここに生かされていることは誠に不可思議で大変有り難いことだと改めて実感することができるのです。

              昨年のある日、息子たちが家に飛び入ってきて、「お母さん!お父さん!早く来て!大きいカマキリが裏庭にいるよ!」と興奮して言うので、それまで野生のカマキリを見たことなかった私は、カマキリを是非見たいと思い、急いで息子たちの後について裏庭に行きました。庭に出ると、10センチくらいのとても大きいカマキリがパティオにいました。これまで見たカマキリの中で一番大きいカマキリが自分の庭にいたことに私はとても感動しました。

              実はその野生のカマキリを裏庭で見つけた数年前の三月頃、私たち家族はナーサリーで長男が見つけた容器に二つ入っているカマキリの卵しょうを買って家で育ててみることにしました。私はカマキリが孵化すれば、私たちが庭で育てている野菜を食べる虫を減らしてくれる便利なペットになるだろうと思っていました。そして約一週間後に、その卵しょうから孵化した何百匹もの極小のカマキリ達が一斉に出てきました。孵化した後すぐに裏庭の茂みに放しましたが、カマキリ達は共食いをしたり、鳥に食べられたりして、残念ながらその数はすぐに激減してしまいました。初夏の時点で、もう庭でカマキリの姿を見るのが珍しくなっていました。そして最後に見かけたのは6月で、長さ3センチメートルぐらいのものが一匹だけでした。

              カマキリが孵化した時のその小ささとその命のはかなさを見た後で、長さ10センチものカマキリが自分の庭に現れたのはどれほど不可思議なことかと私は実感しました。この時私は、お念仏を喜んでいた小林一茶の次の俳句を思い出しました。

蟷螂(とうろう)片手(かたて)かけたりつり(がね)

私たちは人生の中で無常の風が常に吹いていることに気づかされる時があります。毎日安全で安定した暮らしをするために頑張っているにもかかわらず、実はその命はつり鐘に片手でかかっている蟷螂(かまきり)のようにはかないものなのです。

私は仏様が説く諸行無常を、今年の新型コロナウイルス、そしてこの9月上旬に始まった西海岸に広まっていた記録的な山火事で改めて気づかされました。今の世の中に生きるのは大変ですが、命が無常であることに気づき、仏法に耳を傾けるご縁に恵まれたことに心から感謝します。親鸞聖人の「教行信証」に次の言葉があります。

今、人として生まれたとことを考えると、それは実に得がたいことである。

このことは、たとえば、優曇華がはじめて咲くようなものである。

今まさに、聞きがたい浄土の教えを聞く縁に会うことができた。

今まさに、念仏の教えが説き開かれるときに会うことができた。

(浄土真宗聖典『顕浄土真実教行証文類』現代語訳 82頁)

今日、私たちがここに生かされているのは誠に不思議なご縁です。私たちはこの尊い命をどう過ごせばよいでしょうか?私はお念仏の教えに耳を傾け、ただ南無阿弥陀仏を申します。

南無阿弥陀仏

立ち上がっていく力

毎年、盂蘭盆会と初盆法要の時期を迎えるたびに、別れの悲しさの中にも安らぎを与えてくれるお念仏の力に気づかされます。毎年、サンマテオ仏教会のお盆の行事が終わると、もうその次の週に私の息子達の学校が始まるので、私にとってお盆が終わると夏が終わったという気持ちになります。異例の今年の夏は、初盆法要の後片付けをしながら、新型コロナウイルスが終わったらお供えのおまんじゅうをいつか皆で食べるために取っておこうと思い、久しぶりに仏教会の冷凍庫を開いてみると、大量のハンバーガーパティが入っていて、毎年の仏教会の夏のピックニックの時に食べるハンバーガーの美味しさを思い出して、今年の夏に出来なかった仏教会の行事が次々と思い浮かんできました。私にとって夏の始まりであるバザー、仏教婦人会が七月に行うコルマ日本人共同墓地のお墓参り、そのお墓参りの後のサウスサンフランシスコのデニーズレストランでの婦人会の方たちとのブランチ、四年ぶりに企画していた家族との日本旅行、仏教会のサマー寺子屋、盆踊りの練習の時に食べるスパムむすび、仏教会の本堂が満堂になる盂蘭盆、そして、初盆の参拝者の方々と一緒に唱えるお経の響きの全ては、残念ながら今年の夏は経験することが出来ませんでした。

今年の初盆法要の際、私は先亡者のお名前を聞きながら、その方々との思い出と仏教会の夏の行事の思い出とが重なり次々と思い出されました。同時に、楽しみにしていた夏の行事が全て出来なかったことに対しての悲しさや虚しさを感じもしました。愛別離苦(愛している人や物事から離れる苦しみ)というのは皆が必ず会う八つの苦しみのうちの一つであり、それは、釈迦牟尼仏が悟りを開いた後、初めて説教された時に説かれた四諦の教えに詳しく述べられてあります。釈迦様の教えは私たちが苦しみから解放されるために説かれた教えであり、お盆、初盆、お彼岸などの大法要の際に仏様の智慧の光を仰ぐことによって、悲しみや苦しみの中にも安らぎをいただくことが出来ます。現状では、テレビ電話や電話でのお参りが主で最も安全な方法で以前のお参りと異なりますが、それでもこのお盆の季節に心に安らぎを与えてくれる有難いご縁の一つになったと言えるでしょう。

不急不要外出禁止令が初めて発表されたのは今年の3月の春季彼岸会の直前でした。それから半年経つ2020年9月20日(日曜日)に、秋季彼岸会をオンラインにてお勤め致しますが、今年の春と秋の彼岸の間の生活はずっと新型コロナウイルスに大きく影響されるものとなってしまいました。仏教において、彼岸はこの苦しみの世界(此岸)から仏様の悟りの世界(彼岸)に渡るという意味を表しています。先月8月の盂蘭盆会の際、桑原浄信先生はお念仏によって仏様の悟りの世界が私たちに働きかけてくれることについてお盆のご法話をしてくださり、「念仏もうすところに立ち上がっていく力が与えられる。」という西元宗助先生のありがたい言葉を紹介してくださいました。仏様が苦しんでいる私たちを救いたいというお心は南無阿弥陀仏という形になり、今日の私たちにまで届いて安心を与えてくださっているのです。

新型コロナウイルスの緊急状態もいつか終わる時が来るでしょう。形は多少変わるかもしれませんが、仏教会のありがたい行事もいつか必ず戻ってきます。その時はお念仏の仲間と共に立ち上がっていくことを楽しみにしています。ツインシティズの土屋トッド先生(歌詞)とサクラメント別院の水島コウイチさん(出演)が「ハミルトン」というミュージカルに基づいて製作したパロディーのYouTubeビデオにそのお念仏申すところに立ち上がっていく力が表現されています。土屋先生が書かれたその歌詞の翻訳は次の通りです。

私たちは今度会う時に、きっと笑う

我慢したことは価値があったからだ

以前に大変なことは色々あったにもかかわらず

私たちの仏教会はまた立ち上がってきたのは

無量の慈悲のお陰であったのです。

南無阿弥陀、南無阿弥陀仏

ただ念仏を申すのが良い

南無阿弥陀仏

帰省

日本では、通常、お盆の時期は多くの人たちが実家に帰省するため一年の中で交通量が最も忙しくなる時期の一つです。毎年この時期は、サンマテオ仏教会でも多くの方が盆踊りの練習や盆踊りのために一年ぶりに仏教会に来てサンガとの絆を大切にします。毎年の初盆法要では、前年のお盆以降に往生された方々を偲ぶため、遠方からお参りに来られるご家族らもおられ、多くの方がご参拝に来られます。残念ながら今年の初盆は、新型コロナウイルスの感染を防ぐために仏教会に集まることが出来ませんが、その代わりに8月9日(日曜日)にオンラインと電話で盂蘭盆及び初盆法要を行います。この異例の今年のお盆の迎え方は、この時期の帰省の意義を考えさせてくれます。

盂蘭盆会(お盆)という仏教の行事は釈迦様とその弟子の目犍連尊者の話に基づいていると言われています。目犍連尊者は母親へのご恩の気持ちが深く、

Continue reading “帰省”

ただ心から念仏するのがよい

            三月から私たちの生活に大きな影響を与えてきた不要不急の外出禁止要請がこの一ヶ月で少しずつ緩んできました。 いろいろな店が前もって注文した商品をカーブサイドでピックアップ出来るサービスを行うようになり、レストランも外にある席なら座って食事ができるようになりました。 私たちの近所の屋外プールも開きましたが、 新しいルールがたくさん決められました。 例えば、 水に入っていない時は必ずマスクをつけることとプール用のおもちゃは使えないこと。 いつもあるはずのプールサイドのイスやテーブルは全て撤去され、 その代わりに2メートルずつ一つの家族が荷物を置けるスペースが赤いテープで示されてあるだけなので、 もしプールのそばにゆっくり座りたければ、 各々自分の家から椅子を持参して下さいとの決まりになりました。

      サンマテオ郡でもお寺や教会に対して新しい規則が発表されたため、「いつまた本堂で参りが出来るでしょうか」という問い合わせが何度かありました。サンマテオ郡の衛生局長モロー・スコット医師はお寺や教会に対しての規則を発表した際、全郡の聖職者への手紙を書いて自分の考えを示されました。彼は手紙の一部で次のように述べられています。「皆さんとその信者に分かってほしいことがあります。宗教的な集まりが許されている理由には、そういった集まりが安全だからということではありません。実は、何人の集まりであっても、集まることは安全だと思いません。」その後、モロー医師は聖職者のためのタウンホール・ミーティングを開かれました。

モロー医師の説明によれば、不要不急の外出禁止要請の協力のお陰で幸い患者が急増することなく、病院のベッドが不足する事態もおきませんでしたが、新型コロナウイルスの感染はまだサンマテオ郡に普及しているのが現状とのことです。先日にサンフランシスコ・クロニクル新聞に出た記事によると確かにサンマテオ郡が外出禁止要請を5月18日に緩め始めた頃から、新しい感染者数は31.5%増加しています。最近「新型コロナウイルスの最も危ない時期はもう終わった。」という意見をよく聞きますが、それについてカリフォルニア大学サンフランシスコ校舎大学病院(UCSF)の感染病の専門家ジョージラザフォード医師は別の新聞の記事にて次のように述べてられています。「このウイルスはラジオのニュースも聞かないし、新聞も読まないし、C N N のテレビニュースもみ見ません。このウイルスは繁殖するだけが存在の目的です。」

            聖職者のためのタウンホールの際、モロー医師はもしお寺や教会が集まろうとすれば、その危険性を十分に参加者に発表する必要があると述べ、次の方針を発表されました。建物の中よりなるべく外に集まった方が安全です。50歳以上の方は集まりに参加すべきでない。聖職者を含め、全ての参拝者は必ずマスクをつけるべきである。共用の聖典や香合は使用すべきでない。さらにモロー医師は「となえることと歌うことは一番効率的にウイルスを広く拡散させ、たくさんの人に感染を及ぼす方法なるため、集まりの時に本当にして欲しくありません。」と述べられました。

            このようにモロー医師は、集まってお経をとなえたり讃歌を歌ったりするのは非常に危険であるため、できればインターネット中継を使ってお参りすることを勧めています。サンマテオ仏教会は今後もインターネットのテレビ電話でのお参りを続けますので、http://sanmateobuddhisttemple.org/subscribe/からサブスクライブしていただければ参拝方法の説明をお送りします。パソコンを使われない方は (650) 446-6670 に電話をかけていただければ、そのままお参りを聞くことが出来ます。この番号にはI Dやパスワードは必要ありません。

法事もテレビ電話を利用して執り行っています。一ヶ所に集まってお参りしたい場合でも、北米開教本部からの指導で49日、100日、一周忌、三回忌などの定期的な法事の日程は安全に集まることが出来るようになるまで延期可能の方針をいただいています。もしマスクをして2メートルの距離を保つことが出来れば、屋外で集まってお参りをすることは出来ますが、その場合お経をとなえる代わりに拝読するだけとなります。

            以上のようなお焼香なし、お経をとなえることなし、恩徳讃を歌うことなしのお参りのかたちを考えますと、念仏者として何の行いが必要なのかという問いが心に浮かんできます。幸い、親鸞聖人はこれについて御消息(25)にはっきりと述べられています。

往生は間違いないという思いが定まったなら、 仏のご恩に報いようとして特に何か考えなければならないことはありません。 ただ心から念仏するのがよいと思います。

私は皆でまた本堂に集まって、一緒にお焼香して、仏様の前に肩を並べてサンマテオ仏教会らしく大きな声を出してとなえることができる日を楽しみにしています。その日が来るまで、報恩の心から生まれる他力念仏を申せば他に何も考えなくてよいという親鸞聖人の教えから安心をいただきながら一瞬一瞬を大切に過ごしましょう。

南無阿弥陀仏

水入らず

              不要不急の外出禁止要請が出てから仏教会の毎月の会報の法話を書くのもこれで三回目です。 この三ヶ月間、 仏教会の仲間の頑張りのおかげで電話やテレビ電話を使って毎週日曜日のお参りや勉強会を続けることが出来ていますが、 やはり皆さんと直接仏教会で会えることを非常に恋しく思います。 仏教会の理事会が話し合った結果、 六月いっぱい全てのお参りとイベントは中止になり、 オンラインでの参拝のみとなりました。 そして、 残念ながら今年の夏のバザーも中止になってしまいました。 毎年の仏教会のバザーは大勢の仲間が共に働き、 共に楽しむ、 一年間の中で最も賑わうありがたい行事の一つです。 コロナウイルスの影響で今年の夏にバザーが実施できないのは本当に寂しいですが、その代わりに六月二十七日に皆さんがビデオ電話や電話で参加できる楽しい行事を企画しています。

新型コロナウイルスは私たちの人生に大きな影響を及ぼしていますが、同時に仲間と一箇所に集まることのありがたさをより深く感じるようにもなりました。例えば、今まで挨拶程度の浅い交友関係だった近所の人たちとも、散歩途中の6フィートの距離を保ちながらの路上での会話がとても楽しく感じられます。

このように一緒に過ごすことの大切さを再認識しながら、私は念仏者同士の深い思いやりを今まで以上にありがたく思うようになってきました。梯實圓先生は19世期頃のそのような念仏者同士の深い関係を次のように紹介されています。

あるとき[信次郎という念仏者が]京都に一蓮院という厚信の御講師がおられるときき、教化にあずかるために上京し、その住居をたずねました。

玄関で待っていますと、出てこられた一蓮院はいきなりきびしい口調で問われた。

「私にあいたいというのはその方か、なにの用があってまいられた」

「南無阿弥陀仏の六字のおいわれを聴聞つかまつりたくて参りました」

信次郎が、こう答えると一蓮院は、表情をやわらげて、

「それはよく参った。しかしそういうところをみると、今までに六字のおいわれを聞いたことがあろう。何と聞いてまいった」

「はい、南無阿弥陀仏とは、必ず救うぞ、とこのわたくしをおよびづめ、招きづめの如来さまのおよび声であって、このおおせに微塵(みじん)のまちがいもないといただいております」

この答えを聞きますと、一蓮院は、全身によろこびをあらわして、信次郎が立っている土間まで降りてきて、彼の手をとり、

「それがお六字のおいわれというものじゃ、たのむというも、信ずるというも、そのことじゃ。いいお同行がまいられた。ささ、おあがりなされ」

といって、自室に案内し、いろいろと御法談をしてくださったそうです。

(『妙好人のことば』梯實圓著 220〜221頁)

一蓮院と信次郎は共に念仏を喜んでおり、二人はありがたい関係になりました。一蓮院は晩年信次郎と一緒に暮らしており、信次郎は一蓮院の日常生活の手伝いをしながら朝も夕方もよく仏法を聴聞したということです。下記の話の続きに二人の仲の良さを見ることが出来ます。

あるとき、信次郎はよばれたので、お部屋へ伺いますと、一蓮院は一言も御用をおおせられず、ただお念仏ばかりを称えておられます。そのうちに何かおおせつけになるのだろうと待っていましたが、一向にお言葉がありません。部屋を出るに出られず、信次郎もまたお念仏をはじめると師はいよいよ声をはりあげて念仏されます。知らぬまに夜がふけて、真夜中になってしまいました。そのとき一蓮院は、ふと念仏をやめると、「信次郎、今晩は、水入らずでありがたかったのう」

といわれたそうです。

(『妙好人のことば』梯實圓著 220〜221頁)

私たちは家族や友達と一緒にいると、ついつい特別な会話やアクティビティをしないと有意義な時間にならないと思いがちです。しかし、一蓮院と信次郎のように心を開いて南無阿弥陀仏のいわれを聞けば、私の救いのためにやらないといけないことは全て阿弥陀如来が既に完成して下さっていることに気づくことが出来ます。そうすれば、仏様の大慈悲を仰ぎながら、安心して、ただ一緒にいるご縁を喜ぶことが出来ます。この大変の世の中でも、ご一緒に、お念仏に仏様の呼び声を聞きながら、心安らかに暮らしましょう。

南無阿弥陀仏

聞き合い、仏様に聞く

思えば、 先月、 私が仏教会の4月の会報用の法話を書いていた時にちょうど新型コロナウイルス対策のための不要不急の外出禁止要請が始まりました。 その時点では、 これからどうなるのだろうという不安はありましたが、 新型コロナウイルスが世界中でこんなに数多くの人々が感染するとは想像もしていませんでした。 今、 仏教会の5月の会報用の法話を書いているところですが、 今朝「新型コロナウイルスがアメリカにおける死亡原因の一位に上りそうだ」というタイトルの記事をワシントンポスト新聞で見かけました。 国内外で数多くの方々が感染し、 命を落とすケースも少なくないという現状は本当に悲しいことです。 しかしこのような不安と恐怖の中でも私たちは親鸞聖人の教えに耳を傾けることによって安心をいただくことができます。

この間、有難く読ませていただいた親鸞聖人のご消息は飢饉と疫病によってたくさんの人々が亡くなっていた時代に書かれたもので、親鸞聖人のそのお言葉を今の大変な状況の中で読みますと心に響いてくるものがあります。

何よりも、去年から今年に欠けて、 老若男女を問わず多くの人々が亡くなったことは、 本当に悲しいことです。 けれども、 命あるものは必ず死ぬという無常の道理は、 すでに釈尊が詳しくお説きになっているのですから、 驚かれるようなことではありません。

(『親鸞聖人御消息16』現代語訳)

親鸞聖人は先ず「本当に悲しいことです」と述べられます。この言葉で親鸞聖人がお別れにあった人々の悲しみをやさしく分かち合っておられるのが分かります。そして、生まれるものは必ず死に至るという無常の道理はすでに釈迦様が詳しく説かれているので、驚くようなことではありませんと述べられています。しかし、新型コロナウイルスで亡くなられた数多くの人々のこと、またこの大変な状況の中でも一生懸命患者の命を救おうと命懸けで働き続けてくれている医療従事者のことを考えると、私はどうしても驚いてしまいます。自分の幼い娘が1819年の天然痘で死別した小林一茶はつぎの句を詠んでいます。

 

露の世は露の世ながらさりながら

 

生老病死は全ての人が必ず出会う苦しみであるという釈迦様の教えを聞き、それを信じても、まだ悟りの智慧が整っていない凡夫の私にはお別れの時は悲しみと驚きの気持ちが心に満ちて溢れてきます。

では、病気と死別から逃げることが出来ないこの世の中に生きている私たちはどこから安心をいただけるのでしょうか?親鸞聖人は、阿弥陀如来による本願を信じる人は必ずお浄土に往生して苦しみから解放されるとした誓願を勧められており、私たちはこの阿弥陀如来による本願を信じること、つまり信心によって安心をいただくことができるのです。

わたし自身としては、 どのような臨終を迎えようともその善し悪しは問題になりません。 信心が定まった人は、 本願を疑う心がないので正定聚の位に定まっているのです。 だからこそ愚かで智慧のないわたしたちであっても尊い臨終を迎えるのです。

(『親鸞聖人御消息16』現代語訳)

私のように智慧のない世の中の苦しみに沈んでいる人がいるからこそ阿弥陀如来は本願を立てられました。「南無阿弥陀仏」のお名号を聞きますと生きることにも死ぬことにも恐れはいらないという安心をくださる仏様の呼び声を聞くことが出来ます。

お念仏に生かされるとは喜びの時にも悲しみの時にも仏様の呼び声を聞くということです。お念仏を共に喜ぶ仲間と共に聴聞することは大きな安心を与えてくれますが、今は不要不急の外出禁止要請によりなるべく人と会わないように規制されているので、今まで通りの聴聞はできなくなっています。それでも、仏教会の仲間と共にお念仏を喜ぶことは今も続いているのです。

この一ヶ月の不要不急の外出禁止要請の間に、仏教会の仲間は電話やEメールを使ってお互いに声を掛けたり、外出が出来ない方を助け合ったりしています。そしてテレビ電話や電話で話し合う法座に参加することによって、心配や不安を聞き合っています。お互いに不安を聞き合うことによって、仏様は全ての人の不安を聞き、皆一人ひとりに安心を与えるため本願を建立されました。お名号を聞くことによってその金剛の信心をいただくことで、大変な世の中にいても本当の安心をいただくことが出来るのです。

 

南無阿弥陀仏

 

 

サンガの宝

今、 新型コロナウイルス感染の影響で世の中が大変な状況になっている中、 皆様は阿弥陀如来の智慧と慈悲をよりどころとして、 心穏やかに暮らせていますでしょうか? 先日、 オークランド仏教会のブリッジ・ ハリー楽橋先生からのメールに「お念仏を申すのをお忘れなく」と書かれていましたが、 まさにそのとおりだと思いました。私たちが阿弥陀さまを忘れても、阿弥陀さまは決して私たちを忘れることはありません。

サンマテオ郡の衛生局から出された新型コロナウイルス感染症の流行を防ぐための指導に従い、 サンマテオ仏教会は四月いっぱいお寺を閉めることに決めました。このため四月の祥月法要も延期となりました。

このように仏教会への直接の参拝はしばらく中止されてしまいましたが、 4月19日(日曜日)は午前9時半から釈迦さまのご誕生を祝う花祭りの法要をインターネットでライブ中継する予定ですので宜しければそちらでご参拝いただけたらと思っています。

この大変な時こそ、御同朋御同行(サンガ;お仏法の仲間)のご縁をお互いに大切にしましょう。直接会えなくても、代わりに、友達や親戚に電話やテレビ電話をかけて共に会話を楽しむことはできます。

サンマテオ仏教会では、この度電話やオンラインで参加できるお参りやアクティビティーの提供を始めました。インターネットやパソコンの使い方に不自由のない方は、この機会に是非インターネットを使うことに慣れていない家族やお友達を手伝っていただければと思います。

電話で法話やお参りをお聞きになりたい方は、(650) 342-2541に電話をかけることによって、電話参加者リストへの登録が可能です。Eメールのリストもトピック毎に分けて作ってありますので、ご自分の興味のあるトピックについての連絡がもらえます。ご自分がサブスクライブしたトピックだけのお知らせをもらうことも可能ですし、そのサブスクリプションのトピックの変更もいつでも可能です。下記のサンマテオ仏教会のホームページからサブスライブできます。

https://sanmateobuddhisttemple.org/subscribe/

又は、sanmateo.buddhist@gmail.com にメールして、サブスクライブすることができます。

選べるトピックは下記のとおりです。

Live Broadcast of Services: 毎週日曜日のお参りにはオンラインで参拝できますし、電話で参拝することもできます。オンラインまたは電話で参拝するための情報は毎週提供されます。

Dharma School: 今、自宅でできるダーマスクールアクティビティー考えているところです。私も小学校生の子供が二人いて実感していますが、学校閉鎖と外出制限を強いられている状況で、ダーマスクールの子供の親たちも家で自分の仕事も進めながら、子供の勉強にも目を配らなくてはいけないといった、今までにやったことのない自宅学習を実践しなければいけない状況に多くのストレスを抱えているに違いありません。ただ一方で、この大変な日々の中でも、今の時代に珍しく親と子供が全員家にいて一緒に過ごせる時間が与えられたことに有難く感じているのも本当です。

Study Classes and Seminars: 毎週日曜日の大人向けのダーマディスカッションもオンラインと電話で継続していきます。また、その他の勉強会や話し合い法座も同様に続けていく方向です。

Community Service (ex. Support for Homebound Elders)

この厳しい現状の中、スーパーや薬局への外出ができない方のために買い物のサポートを提供してくれるサービスも必要ですが、そういった方々に電話で話を聞いてくれる相手がいることも大切だと思います。そしてそれは現状の社会的に距離を保たなければいけない時に特に大事と言えるでしょう。ずっと一人になることは精神的負担になりますが、それは特に高齢者に悪影響を与えてしまいます。日々いろいろな刺激を受けることは年齢を問わず精神的な健康にとても大事なことで、ある方にとっては仏教会がその刺激を受ける一番の場所になっていたことでしょう。現状のお寺に直接来られない時でも電話で会話をすることによって刺激を受けることができます。サンマテオ仏教会では現在、自宅で一人で過ごされているメンバーの方々に定期的に電話で会話をして下さるボランティアを募集しています。ボランティアができる方は(650) 342-2541又はsanmateo.buddhist@gmail.comまでに連絡お願いします。

日本語の法話: 日本語のお参りや勉強会のライブインターネット中継についての情報を提供します。

General Announcements: 祥月法要、メモリアルデーのお墓参り、バザーなどの情報を提供します。

その他問い合わせや相談したいことがあれば、遠慮なく私(650) 342-2541に連絡下さるよう宜しくお願いします。

 

南無阿弥陀仏

西方に向かって

3月22日(日曜日) は午前9時半から春のお彼岸法要をお勤めします。 春と秋のお彼岸の日は、 昼と夜の長さがちょうど同じとなり、 太陽が真っ直ぐ西の方に沈みます。 浄土三部経には、 阿弥陀如来のお浄土は西方にあるさとりの世界であると述べてありますので、 お彼岸は自分の人生の歩んでいる方向を確認するのに良い機会といえるでしょう。

『仏説阿弥陀経』に阿弥陀如来の極楽浄土が西方にあることについて次の言葉があります「ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、  極楽と名づけられる世界がある。 そこには阿弥陀仏と申しあげる仏がおられて、  今現に教えを説いておいでになる。」私が以前、お彼岸の法話にその西方浄土の話をした後に次のような質問を受けたことがあります。「阿弥陀如来のお浄土は西方にあるといえば、宇宙船に乗って行けるようなところでありますでしょうか?」私はその時どう答えればいいのか分からず困ってしまいました。確かにお浄土が存在している世界であるのは間違いありませんが、おそらくそのような物理的な場所ではないでしょう。

その後、私は京都の中央仏教学院で勉強していた時の恩師佐々木義英先生にお会いした時に、もし先生がその質問をされたらどう答えますかと尋ねると、佐々木先生はご自身が書かれた『なるほど浄土真宗』という本にある次の分かりやすい説明を紹介して下さいました。

夜空に浮かぶ美しい星々の輝きは、何億光年という気の遠くなるような時間をかけて、地球にたどり着いています。ところが、その光が地上にとどく頃には、すでに消滅している星もあります。私たちが見ている星々のすべてが実在しているわけではないのです。

 夜空の星々も、それを地上で見ている私たちも、すべてのものは生まれてはやがて消えていきます。「浄土」が望遠鏡で取られるような世界であるのなら、夜空の星と同じように、やがて消滅してしまうことでしょう。

 このように、私たちの世界のなかでは、どのようなものであっても、永遠にあり続けることはできません。ですから、お経には、「浄土」は、私たちの世界とは異なっていて、私たちのものの見方や考え方ではとらえることのできない「さとりの世界である」と説かれているのです。そして、それは「生まれてはやがて消えていくという世界のなかにいる私たちを救い取ってさとりを開かせる」ために「ある」世界ということなのです。(『なるほど浄土真宗』13頁)

朝、東の空に登っていく太陽が必ず夕方になると西の方に沈んでいくのと同じように、この世に生まれてきた私たちも必ずいつか死に至ります。悟りを開く人は人生が終わった時に生死の迷いの世界から開放されます。悟りを開いて生死から解放されることは仏教の目指すところです。悟りにたどり着くためには八万四千の法門があるといいますが、私たちが阿弥陀如来がすべての人々を救う本願を信じて浄土に往生することは、私たちを必ず悟りへと導いてくださるお念仏の道です。お彼岸は私たちが歩んで行くその悟りへの道を確かめる尊いご縁なのです。

 

南無阿弥陀仏

功徳に勝れている

この間、お参りの後に仏教会の会長が皆さんに挨拶した際、こう言われました、「先ずはアダムス先生に遺憾の意を示しめします。」一瞬、一体何の話だろうと思いましたが、続けて「昨日のアメリカンフットボールのディビジョン決勝戦でサンフランシスコ・フォーティナイラーズが先生の実家ミネソタ・バイキングスに圧勝したことは申し訳ありませんでした。」と。なぜなら、惜しくもバイキングスが負けてしまったので、ミネソタの多くの方が希望していた二月二日のスーパーボールへ登場の可能性は消えてしまったからです。

スーパーボールはアメリカンフットボールの優勝戦であり、家族と友たちが集まって見ることはアメリカの特徴な文化の一つと言えるでしょう。スパーボールに登場するチームは自分のディビジョンとコンファレンスの他のチームに勝利しないといけません。それほど勝れたチームは内面に強いやる気の精神、戦略力、努力などが必要かつ、外面に速さ、力、良い装具が必要です。

実際にスーパーボールの舞台に立つことが出来る人は少ないのですが、試合を見るのが楽しいのは、私たちそれぞれの人生の挑戦の中でも勝利したり失敗したりすることがあるので、一生懸命頑張る選手の姿を見ることで私たちも選手らから頑張るエネルギーと勇気をもらえるからです。

仏様の教えではむさぼり・いかり・おろかさの三毒に勝利することが人生の中の最も大切な挑戦だとされています。むさぼり・いかり・おろかさは私たちの自己中心的な生き方から起こり、自分自身と周りの人たちを苦しめることから、三毒と言います。但し、仏様の智慧と慈悲をいただき悟りを開くことによって私たちも三毒に勝利することが出来るのです。

スーパーボールで優勝するチームは内面外面両方に勝れた選手であることを表しています。同じように、悟りを開き、むさぼり・いかり・おろかさに勝利する人は内、外ともに仏様の勝れた功徳を備えていることを表します。仏様の内面的な功徳は智慧と何に対しても恐れることのない強い心です。そして、仏様はすべての人々を救うため仏法を広めることで外面的な功徳も示されています。仏様はこのように仏法を広めることによって、私たち皆の人生に智恵の光を照らして下さっているのです。

「南無阿弥陀仏」という名号で仏様の智慧と慈悲が私たちの心に届きます。法然聖人は『選択本願念仏集』に次のようにその名号の徳を述べられています。

名号は万(よろず)の徳の帰するところである。 ゆえに弥陀一仏の持っておられる四智(しち)・三身(さんしん)・十(じゅう)力(りき)・四無(しむ)所(しょ)畏(い)などの内に一切の証得せられた徳と、 相好・光明・説法利生 (法を説いて衆生を利益する) などの外に働く一切の功徳とが、 みなことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂まっている。

(『聖典意訳七祖聖教』)

阿弥陀如来が名号になって、私たちの心に届くことによって、悟りの一切の功徳をいただくことになります。南無阿弥陀仏を申すと言うことは仏様の智慧と慈悲が私たちの人生に働きかけてくれることに気づき、感謝を表すことです。お念仏のいわれを聞くことによって、阿弥陀如来の智慧の光が私たちの心を照らし、愚痴の畏れと闇から解放してくれるのです。

人生の様々な挑戦に向き合う時に名号が智慧の光を照らし、歩むべき道を明らかにしてくれます。その働きの導きに気づいた時、自然に「南無阿弥陀仏」の念仏が口から現れるのです。

 

南無阿弥陀仏

 

視力20/20

先日私が仏教会のオフィスで聖教の少し難しいところを読みながら、いつの間にか居眠りをしてしまっていた時、外のドアベルのチャイムが鳴ったのにびっくりして、とっさに立ち上がりインターフォンを取ろうと焦っているうちにメガネが顔から落ちてしまい床に当たった瞬間、フレームが壊れてかけられなくなってしまいました。アメリカでは一般の人が20フィート(6メートル)離れた距離で見えるものがそのまま20フィートの距離で見えるという優れた視力を20/20と言います。眼科医のオフィスによく掛けられてあるチャートの一番上にある大きいアルファベットは大体視力20/200と言われていて、それしか読めない人の視力は一般の人が200フィート(60メートル)から見えるものがそれらの人には20フィートの短い距離からしか見えない弱い視力を持っていると判断されます。私はメガネをかけていないとその一番上の大きいアルファベットを読むのにさえ苦労します。

ですから、メガネが壊れたとき私は必死になって、十年くらい前京都に住んでいた時に買ったメガネを探し出しました。私は初めて日本でメガネを買った時、出来上がったメガネをかけてみて、メガネ屋職員にこう言いました。「このメガネの強度は間違っていますよ。私は今まで毎回新しいメガネを作ってもらった時は、新しいメガネをかけた時の方がはっきり見えますが、このメガネは前に持っていたメガネよりも強度が低いようです。」そして、前のメガネの強度に変えてくれるかとお願いすると、メガネ屋の職員は次のように答えました。「私たちの考えでは、お客様が今までにかけておられたメガネの強度は強過ぎると思います。左目の視力の方がお強いから、左目の方がいつも右より働いています。左のレンズの強度を少し弱くすれば右と左がバランス良く働くようになるので、目の疲れも少なくなりますよ。」正直、私はその説明に対して疑問を持っていましたが、そのメガネ屋の職員は自信を持って説明してくれたので、とりあえずそのメガネをかけてみることにしました。実は日本に引っ越す前の私のメガネの処方箋は少しずつ強くなりつつあったのですが、六年間日本に滞在していた間は殆ど変わらなかったので、私はそのメガネ屋の職員から聞いた説明を信じるようになっていました。

その後、カリフォルニアに来て新しいメガネを作ってもらった時、眼科医の先生が「右目の処方箋はそのままですが、左目は強くしないといけません。」と言いました。それに対して私は京都でもらった処方箋の理屈を説明しようとしたのですが、カリフォルニアの眼科医の先生は「はっきり見える方がいいでしょう。片目の処方箋をわざと弱くすることを進める医療研究の結果は聞いたことがありません。」とそっけなく言いました。眼科医と医療研究について反論を出す気がなかったので、素直に新しい処方箋をいただきました。その処方箋通りに作った新しいメガネをかけてみると、初めて高速道路を運転した時に降りる出口のサインを遠くから読めたことにとてもありがたく思いました。

そして、今のメガネを修理している間、京都に住んでいた時にかけていたメガネをまたかけてみると、確かに本を読む時に目の疲れが少ない事に気が付きました。初めてカリフォルニアで診てくれた眼科医の先生は、とりあえずは物がはっきり見えればそれでいいという考え方でした。その先生は部屋の向こう側にある物がどこまで細かく見えるかによってだけで処方箋を決めていました。一方、京都で診てくれた眼科医は視力と物を見る人の両方の事を考えながら処方箋を決めていて、どこまで細かく物が見えるかだけでなく、一日中レンズを通して物を見る私の目の疲労度にも気を配ってくれていたのです。この二名の眼科医の先生の方針の違いを今振り返ってみますと「何が見える」のかと同時に「どのように見る」のかということを考えさせられます。

サンマテオ仏教会の本堂には「見真」と書いてある額がお内陣の欄間上に掛けられています。親鸞聖人は見真大師という大師号を明治天皇に宣下されました。「見真」というのは「真を見る」という意味で、阿弥陀如来の光に照らされている真実に気づきながら生きる、念仏者の生き方も表します。親鸞聖人は自分の眼について「正信偈」に次のように述べておられます。

「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。

わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、

煩悩がわたしの眼をさえぎって、 見たてまつることができない。

しかしながら、 阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、 そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」

お念仏によって「真を見る」視力というのは、まさにむさぼり・怒り・おろかさの煩悩によって正しいものの見方がさえぎられている瞬間の自身の心の本当の様子に気づくことです。2020年の新年を迎えながら、阿弥陀如来の光が常に私の人生を照らし、日々智慧と慈悲を私に働きかけていることに気づかせて下さっていることに感謝しています。

 

南無阿弥陀仏