春に咲く花

私の実家があるミネソタ州は冬が寒いので、子供の時、毎年秋には枯れた花を取り除く母の庭仕事を手伝って、次の春のための庭の土を準備したものです。ある年の 11月、私は庭に花の球根を植えながら「これから四ヶ月先まで土はずっと凍っているのに、なぜ今これを植えないといけないかな」と不思議に思っていました。

しかし、翌年の4月になるとたくさんのチューリップやクロッカスの花が綺麗に咲きました。その四ヶ月の間、庭には何も生きている植物はないと思っていましたが、そこにはちゃんと美しい命が存在していて、出てきた芽や花を見た時は感動しました。つまり、庭に命が消えていた訳ではなく、形を変えて存在していただけだったのです。その時の花が咲いたことを見て気付いた自然界の経緯を思い返すと、過去の原因が今の結果になることが理解できます。

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西に向かって

サンマテオ仏教会に赴任する前の3年間半、私はオックスナード仏教会とサンタバーバラ仏教会を任されていました。ある日、サンタバーバラ仏教会のメンバーの方から電話があり、「馬場さんが入院しています。先生が会いに行ってあげたら喜ぶと思います。」と伝えてくれました。馬場さんは95歳の帰米の男性の方で、法要の時は必ずスーツとネックタイを着て参拝されていました。口数の少ない方でしたが、法話の時の熱心なお聴聞の姿が印象に残っています。

その当時は、我が家の長男が一歳になったばかりの頃で、まだまだ子育てしながらの生活に慣れておらず、連絡をいただいた時はその内容に少し慌てていたところでした。馬場さんの病室に入るとたくさんの医療機械がベッド脇に並んでいて、ピーピー音を出して作動していました。馬場さんは私を見ると、「先生、お忙しい中、ありがとうございます。」とすぐに挨拶をしてくれました。私は「馬場さん、どうですか?」と聞いたら、「まあ、ぼちぼちです。先生の奥様と坊やは元気ですか?」と答えてくれました。

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釈迦様にいただく安心

二月は釈迦様の入滅を偲ぶ法要、涅槃会を行います。釈迦様は自身が入滅することにより、生まれる者は必ず死に至るという人間の姿を示されました。このようにいつかは死に至る限られた人生を生きる私たちは、どこに生きる目的を見つけたらよいのでしょうか?世の中を見ていると、名誉や利益のために生きている人も多いと感じることがあります。このことについて、親鸞聖人でさえ正像末和讃に次の言葉を述べてあります。

是非(ぜひ)しら​ず(じゃ)(しょう)もわか​ぬ

この​み​なり

(しょう)()(しょう)()も​なけれ​ども

(みょう)()(にん)()を​このむ​なり

ものごとの善悪も、 正しいことやよこしまなことの区別もつかない

この身である。

わずかばかりの慈悲さえもっていない身でありながら、

名誉や利益を求めて人の師となることを望むのである。

世の中で名誉と利益が人生の中心になってしまうことは親鸞聖人の時から今まで変わっていません。親鸞聖人のこの言葉を読むと、私も名誉と利益に振り回されているその一人だという気がします。

インターネット時代の今、多くの人がソーシャルメディアで自分のイメージを管理することに忙しく、「いいね」という反応を集めることで誰でも名誉を感じることができるため、中毒的に多くの人がそれに多くの時間を費やしてしまっています。名誉のために生きていると、人にどう評価されているかが気になり、心や物事に対する視野が狭くなってしまうことがあります。「ある人に注目が集まっているという事は、もしかすると私は無視されているのではないだろうか」と心配になったり、「周りの誰かが褒められたということは、私の評判が低いということなのではないだろうか」と周りの人を嫉妬してしまうことさえ起こりえます。名誉を求めると切りがなく、名誉によって安心を得るというよりも、むしろ逆に不安になることが多いようです。

利益のために生きると命の尊さを忘れてしまう恐れがあります。現代の社会は、利益を集める経済力によって人生の価値をつける傾向があり、学校の先生やケア・ギバーなど人のために働く人たちの生活は厳しくなっています。それに加えて、人工知能(AI)の発展に伴い、ある仕事はA Iが取って代われる可能性があるので、ビジネス面では人件費の削減につながり会社の利益向上が見込めるものの、もし今自分がしている仕事が要らなくなると、自分の職員としての価値がなくなるのではと心配している人も沢山いるようです。自分だけの利益を求め始めると、それも切りがなく、利益によって安心を得るというよりも、逆に不安になります。

凡夫は名誉と利益に迷い不安になります。釈迦様は凡夫に本当の安心を与えるためにこの世に現れたことについて、親鸞聖人は「正信念仏偈」に次の言葉を述べてあります。

如来が世に出られるのは、 ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためである。

五濁の世の人々は、 釈尊のまことの教えを信じるがよい。

阿弥陀如来の本願は全ての人々を分け隔てなく救う誓いです。名誉というのは名誉により知られている人と知られていない人を分け隔てます。利益というものは裕福な人と貧乏な人を分け隔てます。釈迦様はこの名誉と利益の世界に迷い苦しんでいる私たちのために本願の教えを説かれました。

私たちの人生は、決して名誉と利益によってだけ尊くなる訳ではありません。本願に出会える人生そのものが苦しみから救われる尊いものです。私たちが日頃耳にする「南無阿弥陀仏」のお念仏は、阿弥陀仏が「あなたを必ず救います」という仏様の呼び声です。そして、私たちが口にする「南無阿弥陀仏」とは、仏様の呼び声を聞き信じることで湧き出る「お救いいただきありがとう」という喜びと感謝を表す声です。釈迦様はこのお念仏の安心を私たちに与えるためにこの世に現れてくださったのです。

南無阿弥陀仏

辰年

新年おめでとうございます!干支に2024は辰年で、竜の年です。昔から仏教において、竜は仏法を守る役目を果たすと言われています。そして、多くのお寺で、香炉、襖、お内陣の荘厳などに竜の彫刻や絵を目にします。親鸞聖人の『皇太子聖徳奉讃』に、聖徳太子が建立した四天王寺の敬田院で竜が仏法を常に守っていることが述べてあります。

この()の​うち​に麗水(れいしゐ)あり

荒陵(くわうりよう)()と​ぞ​なづけ​たる

(しやう)(りう)つねに​すみ​て​こそ

(ぽふ)(しゆ)()せしめ​ける

日頃、私たちは財産や身体を守るために色々な手段を使っています。泥棒が家に入らないように家には鍵を掛けて財産や身体の安全を守ります。車にもアラームを付けて窃盗から守ります。スケートボード、アメフト、アイスホッケーなど荒々しいスポーツをする人は身を守るためにプロテクターをつけます。 私が自転車を乗る時には頭を守るためのヘルメットを被り、皮膚を守るための日焼け止めを塗ります。このように、私たちは大切なものを守りたい時や、泥棒や紫外線のような被害を与えるものが中に入らないように様々な手段を取ります。

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慈悲の光明が常に照らしてくれる

最近、中東からの悲しいニュースが毎日届く中、ウクライナでの戦争も長引いており、さらにアメリカ国内での乱射事件も次々と起こって、この世の中はむさぼりといかりとおろかさに目が遮られ、全ての人々は共生する事の大切さが見えなくなってきているように思えます。こういう暗みが多い時にこそ、他宗教の仲間と集まり共に世の中の平和の願いを表すことで希望の光が見えてくると思います。先日、他宗教の友人と話す中で、ユダヤ教ではハヌカー、イスラム教ではラマダン、ヒンズー教ではディーワーリー、キリスト教ではクリスマスと、多くの宗教には暗闇の中の光の輝きを喜ぶ祝日があることに気付きました。

日本の仏教においては、釈迦牟尼如来が悟りを開いた日を記念する成道会を12月8日に行います。成道会とはゴータマ・シッダッタが悟りの道と智慧の光を求めた歩みを振り返りながら、仏様の素晴らしさを褒め讃える法要のことです。

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人生の素晴らしさ

先月、私は私の両親と家族とともに、両親が結婚の約束をした土地グランドキャニオンを訪れ、両親の結婚50周年記念をお祝いしてきました。実は5年前にもそこで皆で父の70歳の誕生日をお祝いしていて、どうやらまた5年後にもそこで父の80歳の誕生日をお祝いする計画が既に始まっているようです。

何億年もかかってコロラド川の渓流によって削り出され出来た壮大な地層が目の前に広がるグランドキャニオンは、長い長い時の流れを味わえる理想的な場所だと思います。その渓流によって絶えず砂や岩が移動し続けることで峡谷が常に移り変わっていくのです。ロッキー山脈の雪が溶ける春には、大量な水が流れ、その雪解け水の勢いで車の大きさ程もある岩すらも流され、峡谷をもっと深く削っていきます。パーク・レインジャーから聞いた話によれば、もし50年後にまたグランドキャニオンを訪ねると、ハリー・ポッターの本一冊分の厚さ(約7センチ/3インチ)ほど更に深くなっているとのことでした。

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私たちの念仏道場

サンマテオ仏教会では10月に親鸞聖人の妻恵信尼さまと末娘覚信尼さまを始め、代々お念仏の喜びを継承してきて下さった仏教婦人の方々をお偲びする追悼法要をお勤めします。親鸞聖人の往生後、覚信尼さまが敷地を寄進し、関東の門弟の協力をえて六角の廟堂が建てられました。

覚信尼さまは廟堂の守護をする留守職(るすしき)に就き、以後覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得てその職に就任することになりました。その廟堂は大谷本廟といい、今の本願寺はその廟堂から始まったと言えます。それ以来、親鸞聖人の子孫が代々守ってきた本願寺は誰でもお念仏の喜びに出会える場所として、今も私たちの仏教会の活動のお手本とされています。

私はこの夏、家族と京都を訪れ、その際本願寺をお参りしました。多少雨の降る平日だったせいか、参拝者は少なかったです。そこで、子供達と本願寺の立派な建築と荘厳を観察しながら、作業衣姿で箒で床を掃除している60歳くらいの男性に気がつきました。その方は、子供達が私に尋ねてくる色々な質問を耳にすると、親切に本願寺の歴史と御堂の造りの特徴を説明してくれました。その方と話すうちにその方も僧侶で本願寺のスタッフだったことが分かりました。僧侶でもあるその方が本願寺の境内を実際に掃除している姿を見ながら、その方が代々親鸞聖人の教えを大切にされてこられた方々に感謝している様子が見受けられました。

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南無阿弥陀仏いつ申す?

太陽がちょうど西の方角に沈むお彼岸を迎える9月は、自分の人生の歩む方向を振り返る良い機会です。サンマテオに住む私は最近、太陽が沈む西の方角に向かうとき、マウイ島で起きた大火災で大変な目に遭っている方々のことを思い、安全で安心して暮らせる日常が早く戻るよう願うばかりです。

火災の現地にあるラハイナ本願寺はサンマテオ仏教会と同じく、この夏8月12日に盆踊りをする予定でした。偶然にもちょうどサンマテオ仏教会の駐車場の真ん中でやぐらの組み建てが完成した時に、開教使仲間から送られてきた火災後のラハイナ本願寺の写真を見て、ほぼ焼け野原となったお寺の敷地の真ん中に火事から免がれたやぐらがぽつんと建っているのを見た瞬間、この世は無常であるとつくづく実感しました。

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優しい眼差しをいただく

財物がなくても他の人に出来る布施の一つは、相手を憎むことなく、優しい眼差しで接することだと説かれています。ここに言う優しい眼差しとは、ただ目の前に起こっていることだけを見ているのではなく、私たちにお慈悲の心をもって苦しんでいる人たちに手を差しのべるよう後押ししてくれています。

盂蘭盆会(お盆)という仏教の行事は、釈迦様とその弟子の目犍連尊者の話に基づいていると言われています。すでに悟りを開いていた仏弟子の目犍連尊者は天眼という優れた視力をもっており、生死の境を超えて因果の動きを見ることが出来ました。ある時、目犍連尊者はその視力を使い、六道*の世界の中で亡くなった自分の母親を探しました。すると、母親が餓鬼道という欲が多く、決して満たされることのない、とても苦しい世界に落ちているのが見えました。

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仏様のやさしさ

いよいよ夏が到来し、子供たちも夏休みに入ったので、天気がいい日はビーチに行ったり、旅行をしたりして、出来るだけリラックスして楽しく過ごしたいなと思う今日この頃ですが、ずっとそのような幸せなが気分が続くというのはなかなか難しいものです。仏教の基礎的な教えの中の一つに、私たちは自らの行いと言葉と考え方によって、自分がどのような人間になるのか、どのような環境に暮らすのかが決まるとあります。この仏さまの教えによれば、賢く優しい人間になりたいと一生懸命努力する人は幸せな人生を送ることが出来ると言えるでしょう。賢い人は熱心に勉強し知識を得、すでに穏やかで幸せな人生を送っている人たちからそのための方法を習い、智慧を得ようと努力をします。優しい人は常に相手の気持ちを考え、自分がされたくないことは他の人にしないよう心掛け、お慈悲の心を示します。

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