October 2026 Minister’s Message (日本語)

いのちのひとしい重さ
阿弥陀仏の大悲の光に照らされて

鬼倉ブライ 知永美

以前のニュースレターでもご紹介しましたが、私が現在暮らしているミネソタは、とても自然豊かなところです。庭にはウサギや鹿がやってきて、七面鳥が道を横ぎります。空には鷹が飛び、時にはキタキツネやコヨーテも現れます。

先日、近所の「犬友」たちと立ち話をしていたときのことです。一人が、「うちの二階のベランダにウサギの死骸があったのよ。たぶん鷹が捕まえて、運んでいる途中で落としたんじゃないかしら。恐ろしい光景だったわ。それで今日、近くの森を歩いていたら、今度は鷹が死んでいたの。あのウサギを殺した鷹かしら」と言いました。すると別の人が、「それ、コヨーテの仕業かもしれないわよ。さっきあそこで、ものすごく大きなコヨーテの糞を見つけたから」と言います。「まあ、怖い。犬を一匹で庭に出しておけないわね。コヨーテなら柵くらい簡単に越えてくるでしょう」

そんな会話を聞きながら、私はふと不思議なことに気づきました。ウサギは鷹に食べられた。もしかすると、その鷹もコヨーテに襲われた。そして今度は、私たちは自分たちの犬がコヨーテに襲われないかと心配している。考えてみれば、それが自然の営みです。生き物は、生きていくために他のいのちをいただかなければなりません。鷹がウサギを食べるのも、コヨーテが他の動物を食べるのも、生きるためです。そして私たちが大切にしている犬たちも同じです。毎日食べているドッグフードには、チキンやビーフ、魚など、別のいのちが含まれています。でも、そのドッグフードを見て「まあ、恐ろしい」とは言いません。

ウサギにも一つのいのちがあります。鷹にも、コヨーテにも、そして私の犬にも、それぞれひとつひとつのいのちです。それなのに私たちは、自分との関係によって、いのちの重さを違って感じています。ウサギの死は「自然だから仕方がない」と思えても、自分の愛する犬のいのちとなれば、何としてでも守りたいと思います。

私たちは、自分を中心にして世界を見ています。愛する人、知らない人、好きな人、嫌いな人。自分にとって大切なものと、あまり関係のないもの。気づかないうちに、自分との関係によって、いのちの重さまで量ってしまっています。

『歎異抄』第一条には、親鸞聖人のお言葉がこのように述べられています。

「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。」

阿弥陀仏の大悲の前には、年老いた者も若者も、善い人も悪い人も、分け隔てはありません。大空が、大きいものも小さいものもすべて包んでいるように。大地が、重いものも軽いものも、きれいなものも汚れたものも、少しの隔てもなく載せているように。阿弥陀仏の本願の大悲は、すべての人、すべての衆生を分け隔てなく包み、一人ひとりのいのちを、かけがえのない大切なものとして受けとめ、安住の場を与えてくださいます。そして同時に、阿弥陀仏の智慧の光は、私たち自身の姿を照らし出します。

私たちは、自分の都合を中心に、愛するものと嫌うもの、大切なものとそうでないものを分けながら生きています。近所での何気ない会話は、そんな自分の姿に気づかせてくれました。ウサギの死は自然の営みとして受け入れ、鷹の死には恐ろしさを感じる。しかし、自分の愛する犬が危ないとなれば、そのいのちの重さは、私の中で大きく変わります。浄土真宗は、すべてのいのちをまったく同じように扱いなさい、と求める教えではありません。仏法を聞くことを通して、愛憎や執着、自分の都合によって世界を見ている自分の姿に気づかされていきます。そして、そのような煩悩を抱えた私たちだからこそ、阿弥陀仏の大悲の中にあるのだと聞かせていただくのです。

ウサギも、鷹も、コヨーテも、私たちの愛する犬も、そして私たち一人ひとりも、二度と繰り返すことのできない、たった一つのいのちを生きています。私たちの物差しを超えて、すべてのいのちを分け隔てなく包む阿弥陀仏の大悲。その如来のお心を聞き、自分自身の姿に気づかされていく。それが、浄土真宗のみ教えに遇う大切なご縁なのだと思います。

合掌