世話をして世話になる

夏の終わりが近づくとまもなく秋の彼岸を迎えます。このお彼岸の季節に、私たちはあらためて、仏様の大慈悲を心のよりどころにし、これまでの人生を支えてくださったご縁を省みながら智慧の光が照らす安楽国への道の方角を確認します。

今年の夏休みに私は家族を連れてアイオワ州にある介護施設で暮らす祖母に会いに行きました。訪ねた日はとても元気で、私がまだ聞いたことがなかった彼女が生まれ育ったカンザスシティの都会での暮らしや思い出、そして祖父と結婚した後に移ったアイオワ州の田舎にある畜産農業を営む祖父の実家での暮らしに慣れるまでの経験を色々と聞かせてくれました。

祖母はカンザスシティの都会で暮らしている間、まさか将来自分が農家の人と結婚して農場に住むとは全く想像していなかったそうです。祖父は当時、航空整備学校で学ぶためにカンザスシティに引っ越して来ていて、祖母に出会った時はトランスワールド航空会社で航空整備士として働いていました。祖父は七人兄妹の一人息子で、姉妹たちはまだ結婚していなかったので、代々守ってきた農家の後を継ぐのは彼の責任でした。

祖母は、農家の生活は都会の暮らしのように楽なものではなかったと言います。農家に住み始めた頃は、家の中ではなく畑や家畜小屋で働くことの方が多かったようですが、畜産農業の運営が落ち着いてくると農家に働きに来る人たちが増えてきたため、今度は祖母は皆の食事を作る担当になりました。料理の材料を作るためにも野菜畑をどんどん増やさないといけなかったので、ある時は作物畑の端のスペースにも野菜を植えたこともあったそうです。農家の仕事は肉体労働のため、食時の時になると皆はとてもお腹が空いていて、食卓の上に置いた料理だけでは足りず、もっと用意して玄関にあったテーブルの上にも食べ物を置いて食べさせていたそうです。

私の母は七人兄妹の長女で弟が三人、妹が三人いたので、祖母にとって七人の子供を育てるのも大切な仕事でした。子供たちは自分たちで育てて良い牛や鶏などの家畜を与えられ、それらを自分たちで世話をすることで、家畜を売った時の利益が子供たちの小遣いになりました。家族が住んでいた農家の寝室は全て二階にあり、祖父母の部屋と洗面場を繋ぐ廊下はその間にある子供部屋の中を突き通っており、僕の叔父たちは子供の頃よく夜遅くまで騒いでいたそうですが、翌朝早朝から農場の仕事に出ないといけない祖父母は子供が起きないようにそっと出て行くのもお構いなしだったと祖母は笑いながら語ってくれました。

祖母の思い出話を聞きながら、祖母が広い心で色々苦労をしながらも農家を営みつつ家族を大切に育ててくれたおかげで、私が今日ここに生かさせていただいているのだとあらためて祖母への感謝の気持ちが込み上げてきました。祖母はこれまで長年たくさんの人のお世話をしてきました。そしてここ数年になってからは、私の母と叔父叔母が少しずつ祖母の世話をするようになってきました。常に移り変わる人生の中で、お世話をすることとお世話になることの関係性から見えてくる命の繋がりのありがたさを深く感じます。

祖母が都会から田舎の農家に嫁ぎ、私の母を育て、家族のための苦労がなければ、私は今ここに生かされていませんでした。同じように、阿弥陀如来が私を救う本願を誓ってくださっていなければ、私が安楽国に至ることもできません。親鸞聖人はこれを正像末和讃(98)に次のように述べられています。

如来(にょらい)願船(がんせん)いまさずは

()(かい)をいかでかわたるべき

阿弥陀仏の本願の船がなかったなら、

苦しみに満ちた迷いの海をどうして渡ることができるであろう。

南無阿弥陀仏