春に咲く花

私の実家があるミネソタ州は冬が寒いので、子供の時、毎年秋には枯れた花を取り除く母の庭仕事を手伝って、次の春のための庭の土を準備したものです。ある年の 11月、私は庭に花の球根を植えながら「これから四ヶ月先まで土はずっと凍っているのに、なぜ今これを植えないといけないかな」と不思議に思っていました。

しかし、翌年の4月になるとたくさんのチューリップやクロッカスの花が綺麗に咲きました。その四ヶ月の間、庭には何も生きている植物はないと思っていましたが、そこにはちゃんと美しい命が存在していて、出てきた芽や花を見た時は感動しました。つまり、庭に命が消えていた訳ではなく、形を変えて存在していただけだったのです。その時の花が咲いたことを見て気付いた自然界の経緯を思い返すと、過去の原因が今の結果になることが理解できます。

サンマテオ仏教会では4月に、2,500年前にガウタマ・シッダールタがネパールのルンビニに誕生したことを祝う花祭を行います。シッダールタは自らの生涯の中で悟りを開き、釈迦牟尼仏陀として人々に尊ばれました。慈悲に満ち満ちた釈迦様が説かれたその教えは今でも多くの人の人生のよりどころとなっています。

シッダールタが生まれた時、ルンビニの園にはたくさんの花が咲いており、シッダールタは生まれてすぐに七歩歩み、その七つの足跡には蓮の花が咲いたと伝えられています。シッダールタは生死の六道[1]を何度も渡り、深い因縁によりこの世に生まれてこられました。この時の七歩を歩んだことは生死の六道を超えてすべての人々のために悟りの道を開かれる決心をされたこと表しています。

釈迦様は80歳の時、人間としての最後の生まれを終えて涅槃寂静に入りました。庭に一時咲く花のように釈迦様の人生は無常の道理を表しており、今も多くの人々が釈迦様の説かれた智慧と慈悲の教えに帰依し救われています。

釈迦様が説かれた数多くの教えの中に、阿弥陀如来の本願は私たちが悟りの世界に入る法門、とあります。阿弥陀如来は、仏様の智慧と慈悲を深く信じ感謝の念仏を申す人々は必ず安楽の世界に入る、と本願に誓われました。

私たちが喜びと感謝の気持ちを持って「南無阿弥陀仏」を申す時、私たちの心に救いの花が咲きます。「教行信証」にある親鸞聖人の慈愍和尚 (じみんかしょう)の次の言葉を引用し、この喜びを表したいと思います。

今、 人として生れたことを考えると、 それは実に得がたいことである。

このことは、 たとえば、 ()(どん)()がはじめて咲くようなものである。

今まさに、 聞きがたい浄土の教えを聞く縁に会うことができた。

今まさに、 念仏の教えが説き開かれるときに会うことができた。

()(どん)()という花は特別な因縁によって咲くので、殆どの人はその花が咲くところを見るご縁はないと言われています。同じように、私たちは長い迷いの冬を乗り切って、ようやく仏様の教えを聞くご縁に恵まれます。そうして、心に感謝の花が咲いた今、人生の尊さを味わうことが出来るのです。この人生のご縁を大切にして、仏様の教えをよく聞き、迷いから解放される道を歩むのが良いでしょう。

南無阿弥陀仏


[1] 衆生がそれぞれの行為によって趣き往く迷いの境界:地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天