この年末年始の季節は家族と友達が集まって、お雑煮やおせち料理を始め美味しいご馳走をいただきます。伝統的な旬の料理をいただきますと昔の人たちとの繋がりを感じます。
私はこの間初めて水あめを食べました。初めて味わったものでしたが、一休さんで知られている一休宗純禅師(1394〜1481)の幼い頃のとんち話に水あめが出てくるので、ずっとどんな味かと気になっていました。一休さんは本願寺の第八代のご門主蓮如上人(1415〜1499)と同じ時代に京都周辺にて活躍されており、お二人は仲の良い法友だったと伝えられています。
一休さんは後小松天皇(1377〜1433)の血を引くといわれ、6歳の時に京都の安国寺というお寺に入門しました。ある日、安国寺の和尚さんは水あめをお土産にもらいましたが、小僧たちが食べないように和尚さんが次のように言いました:「これは大人用の薬じゃ。子供には毒じゃ。食べたら、死んでしまうぞ。決して食べてはいかん。」
その後、和尚さんの外出中、一休さんは和尚さんの大好きな硯 (すずり)を割ってしまいました。仲間の小僧たちは和尚さんが帰ってきたら大変だと心配していましたが、そこで一休さんはとんちを働かせました。一休さんは和尚さんの水あめを持ってくると、皆で全部食べてしまいました。そして、食べ終わると、畳の上にジッとして寝るように言いました。
和尚さんが帰ってくると、硯は割られ、水あめは無くなり、小僧たちが皆床に寝ていることを見て、「一体何のことじゃ」と一休さんに聞きました。そして、一休さんは次のように答えました「私たちの不注意で硯を割ってしまいましたので、毒の水あめを食べて、命でお詫びしようとしているのです。まだ死んでいませんが、もう少ししたら毒が効いてくると思いますので、少々お待ちください。」和尚さんはこのとんちを聞いて、笑うしかなかったそうです。
過ぎた一年間の日頃の行いを省みて、仏様の智慧の光に輝いてる人生を送ることができただろうかと反省するのは念仏者の新年の迎え方です。私は自分の都合で、嘘をついたり、真実を認めなかったりする癖があります。私たちは自分のいつわりが明らかにされた時、どのような態度をとるでしょうか?素直に認めることもあれば、頑固になって認めないこともあります。和尚さんが自分の嘘がばれて笑ったのは、「我」から解放され、プライドに縛れていなかったからだと私はこのとんち話の味わいを感じています。
一休禅師は1461年に本願寺で営まれた親鸞聖人の二百回忌法要にお参りされたとき「襟巻きのあたたかそうな黒坊主こやつが法は天下一なり」と詠まれたと伝えられています。親鸞聖人は教行信証に善導大師の次の言葉を引用しています。
心のうちにはいつわりをいだいて、貪り・怒り・よこしま・いつわり・欺きの心が絶えずおこって、悪い本性は変わらないのであり、それはあたかも蛇や蝎のようである。身・苦・意の三業に行を修めても、それは毒のまじった善といい(略)この毒のまじった行を因として、阿弥陀仏の浄土に生まれようと求めても、決して生まれることはできない。なぜかというと、まさしく、阿弥陀仏が因位において、菩薩の行を修めれたときには、わずか一念一刹那の間であっても、その身・苦・意の三業に修められた行はみな、真実の心においてなされたことによる事に由るからである。
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類 現代語訳』170〜171頁)
親鸞聖人が説かれた念仏の法というのは、阿弥陀如来の智慧の光が私たちの心を照らしてくれることにより、私たちの本当の心の有様に気づかせてくれ、私たちが仏様の真実の心に帰依することによりお浄土に往生できるという教えであります。
南無阿弥陀仏