牛の忍耐

3月21日(日曜日)午前9時半から春のお彼岸法要をお勤めします。春と秋のお彼岸の日は、昼と夜の長さがちょうど同じとなり、太陽が真っ直ぐ西の方に沈みます。浄土三部経には、阿弥陀如来のお浄土は西方にあるさとりの世界であると述べてありますので、お彼岸は自分の人生の歩んでいる方向を確認する良い機会といえるでしょう。

仏様の智慧の光に照らされている人生を歩むということを味わうために、お彼岸によく六波羅蜜という教えを勉強します。六波羅蜜というのは、この迷いの世界(此岸)から仏さまの悟りの世界(彼岸)に渡る人たちが遂行する次の六つの行いのことを意味します:布施(ふせ)、 持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禪定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)。

釈迦牟尼仏の前世の物語はジャータカといい、六波羅蜜について分かりやすく述べているものが多く存在します。その中の一つの物語に、ある森に住んでいたいたずら好きの猿と力の強い牛のことが述べられています。その猿は、毎日牛の背中に乗ったり、牛を馬鹿にしたりするなど様々ないたずらをしていました。しかし、猿がどんなにひどいいたずらをしても牛は一度も仕返しをしませんでした。ある日、森の妖精がたまたまその近くを通りかかり、猿が牛にいたずらをする姿を見て驚いて牛に問いました。「牛さんはこの猿より圧倒的に大きくて強いのに、なぜ猿を懲らしめないのですか?」

牛の答えはこうでした。「この猿は忍耐を養う機会を与えてくれるから、私にとってありがたい存在なのです。自分より強い者にいじめられたら、仕返し出来ず我慢するしかないので、それは本当の忍耐(忍辱)ではありません。でも、自分より弱い者にいじめられたら、仕返しを控えて、真の忍耐を養う貴重な機会なのです。」この物語に出る牛は後世、釈迦牟尼仏になったといわれています。

この世の中で最も力がある人や国が、この牛のような忍耐を持っていたら、世界はどのように変わるでしょうか。私自身、この牛のような忍耐的な生き方を目指していきたいと思いながら、実際に私の日々の行いを振り返りますと、猿のように自分の楽しみばかりを求めて、周りの方々の忍耐があるお陰で生かされていることをほとんど意識していないことに気づきます。親鸞上人は、『正像末和讃』に次のように述べられています。

小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき
(浄土真宗聖典 註釈版 617頁)

親鸞聖人は自分の力によって菩薩の忍辱と慈悲を行おうとする自力の心を捨て、他力念仏に帰依されました。阿弥陀如来の本願のお力によりお浄土に往生すると信じて申す他力念仏によって、お浄土に往生される時、私たちは速やかに六波羅蜜を全て完成させることが出来るといわれています。

先月、龍谷大学名誉教授の内藤知康先生をサンマテオ仏教会にお迎えしていた際、先生に日曜礼拝後のアダルト・ディスカッションに参加していただきました。その際、一人の参加者から「六波羅蜜を行うように頑張ることは自力なのですか?他力念仏をいただく者は頑張らない方がいいのですか?」という質問がありました。内藤先生は「頑張ることは問題ではありません。ただ、自分の努力は如来の目から見るとほんの小さなものにしかすぎないということに気づくことが大切です。また、往生浄土のために私の努力が必要だと思ってしまうと、本願の力を疑うことになってしまいます。」と答えられました。他力念仏の中に生かされるということは、自己満足の心を捨て、仏様の智慧と慈悲に照らされた人生を歩むことを意味するのです。

 

南無阿弥陀仏