真実の智慧を依りどころとし、 人間の分別に依ってはならない

2月は釈迦牟尼仏陀がこの世で最後の息を吸い入滅寂静を遂げられたことを記念する涅槃会をお勤めします。この涅槃会で私たちは、生を受けるものは必ず死に至るという真実に気づくことができます。悟りを開いた釈迦牟尼仏陀でさえ死に至ったということは、いつまでもこの生命を伸ばすというのは仏法の目的ではないことを明らかにしています。つまり、お釈迦さまは自分自身で諸行無常の道理を示されたのです。 

仏法は、このいただいた人間としての生を充実したものにし、心安らかに死と向き合える力を与えてくださいます。ちょうど昨年の今頃、初めて新型コロナウイルスの感染者がここ西海岸にも出たニュースを聞きましたが、それから一年の間に人生のありがたさに気づかされたことが何度もありました。その度に「私は極楽往生への落ち着いた心をいただいているだろうか?」という自分自身への問いがわきました。

私の心の様子を考えますと、自分の欲しいものを追いかける日々の繰り返しが殆どという気がします。例えば、昨年初春頃、新型コロナウイルスが広まり始めていたときにはトイレットペーパーや手の消毒ジェルを買うのに必死になっていましたし、最近で言いますと、どんどん背が伸びている長男の新しい自転車を買うことに焦っていました。新型コロナウイルス発生以降、皆な外で出来る楽しい運動を探しているため、自転車はとても人気のアクティビティになっています。特に、体育館の閉鎖や、サッカーの練習が中止になっている今の時期は、多くの家族が子供に新しい自転車を買っているようで、自転車がなかなか手に入らないものになってきました。このように自分が欲しいものがなかなか手に入らない時には、何としてもそれを手に入れようと必死に調べ、自分の利益を求めるための工夫やはからいが色々出てくるものです。私はサンフランシスコからパロアルトまでのあらゆる自転車屋に電話を掛けましたが、息子のサイズの自転車は皆売れ切りで、どこも今度いつ入荷するか分からないと言われました。一か八かで、サンマテオにあるとても小さな自転車屋に電話をかけてみると、コンディションがいい中古の一台があると聞いて急いでその店に向かい、迷わずすぐに購入しました。

反対に、自分が欲しいものを追いかけていない時には、イヤなものを避けようとする傾向にあるように思えます。例えば、自分と違う意見を持つ人とはなるべく触れ合わないようにしていたり、自分が読むニュースや聞くポッドキャスト、そして見るウェブサイトは皆自分の考え方を肯定するもので、違う視点のメディアからの情報を得ようとしていません。世界の本当の様子を理解するというよりもむしろ、私と異なる考えを持つ人に全く耳を傾けていないのです。

このような、追いかけたり避けたりする日々の中で、人生の無常とありがたさに気づかされることがあります。今朝のニュースによると、新型コロナウイルスの感染による死亡者数は、世界全体で2,077,628人に達し、アメリカでは406,196人、カリフォルニア州では35,068人、サンマテオ郡では309人の方が亡くなられたとのことです。皆さんがこのニュースレターを読むまでの間にも、コロナウイルスの感染が原因で往生された方はさらに増加していることでしょう。まさに蓮如上人が記された「白骨章」にある「おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。」とのお言葉が思い浮かびます。

この諸行無常の世の中で、お釈迦さまの教えは安心に至る道を照らして下さいます。

釈尊はまさにこの世から去ろうとなさるとき、 比丘たちに仰せになった。 「今日からは、 教えを依りどころとし、 説く人に依ってはならない。 教えの内容を依りどころとし、 言葉に依ってはならない。 真実の智慧を依りどころとし、 人間の分別に依ってはならない。 (省略)真実の智慧を依りどころとするとは、 真実の智慧に依れば善と悪とをよく考えてその違いを知ることができるが、 人間の分別は常に楽しみを求め、 さとりへ向かう正しい道に入ることができないということである。 だから、 人間の分別に依ってはならないといったのである。」

(浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類 現代語訳 530〜531頁)

私の分別する心は、常に楽しみばかりを求め、先入観と偏見に惑わされて、本当の善悪の違いを見極めることができているとは言い難いです。それゆえ、私の迷いの暗闇を滅ぼし、人生の歩むべき道を照らして下さる仏様の智慧の光に深く感謝いたします。

南無阿弥陀仏