念仏にいただく自由

今年も独立記念日前の日曜日(七月一日)の九時半からのお参りにて北米開教区の歴代開教総長追悼を行います。最近、ご門徒さんのお一人がお寺に寄付された歴史的な書物の中にある1960年5月に出版された辻顕隆元開教総長が開教区会議で話されたご法話を読むご縁がありました。そのご法話を読んだ時、私たちの北米開教区がこの国に存在していることの有難さを感じましたので、皆さんにご紹介したいと思います。五十八年経った今でも、今の時代に響くメッセージです。

北米開教区はお母さんに抱かれて、初参りをする赤ちゃんである。仏教の日曜学校に向かって、ヒナギクがいっぱい咲いている草原を走りわたる子供の足

である。

      バスケットボールのチームを応援している青年の元気な声でもある。

サンホアキン、サンタクララ、ヤキマ、インペリアルなどのバレーで太陽の下に働く百姓である。ミシガン湖やミネトンカ湖の岸にピクニックする若い家族である。往生が近づいているご門徒さんのところに向かって、冬の道路で急いで走っている開教使である。

      嵐が来る前に純血種の牛を納屋に連れて行く大平原の牧場主である。

      忙しい一日の仕事を終えて、マンハッタンの満員電車で家に帰る秘書であり、八十代のご門徒さんを追悼する時にうやうやしく頭を下げる集会である。

      皆様、以上の方々をはじめ、阿弥陀如来の智慧と慈悲に生かされる多くの方々は北米開教区という運動の生き生きしている血脈である。

(“For Buddhism—A National Purpose” in Buddhist Sermons No. 104, p. 10-11, Published Jointly by Honpa Hongwanji Mission of Hawaii and the Buddhist Churches of America, May 1960 アダムス・ヘンリー 訳)

辻総長は、その続きに「謙虚と有難さ、反省と感謝による道徳的な行為、阿弥陀如来の智慧と慈悲に基づく正義と自由と全ての人のための機会均等」というのは念仏の教えに於ける根本的な価値観であると述べておられます。また、別の法話にて辻総長は次のように念仏にいただく自由を表現されています。「南無阿弥陀仏の力は、人生の道を切り開き、勇気を与え、周りの悪から解放させ、数え切れないほどたくさんのいい影響に恵まれるように働いています。お念仏によって限りない愛情と智慧の光が人生の歩む道を照らしてくれます。」 (“Profession of Faith: ARTICLE XI” アダムス・ヘンリー 訳)。お念仏にいただく自由というのは、人生の如何なる事情においても穏やかな心を保つという自由です。

阿弥陀如来を憶念して、謙虚と感謝の念仏を申す時、如来の光が人生を照らします。職場、学校、家庭、パレード、バーベキューなど様々なところで仏様の光が人生を照らせば、社会と国がもっと安穏になります。社会と国が安穏になれば、世界が安穏になります。国が小さくても、大きくてもそうでしょう。

親鸞聖人の御消息にある次のお言葉は、辻総長の法話に響くものがあります。

あなたに限らず念仏する人々は、自らのことはさておくとしても、朝廷や国民のために念仏するのなら、それは結構なことでしょう。浄土に往生できるかどうか不安な人は、まず自らの浄土往生をお考えになって、念仏するのがよいでしょう。自らの往生は間違いないと思う人は仏のご恩を心に思い、それに報いるために心を込めて念仏し、世の中が安穏であるように、仏法が広まるようにと思われるのがよいと思います。」

(『親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)浄土真宗聖典』 81〜82頁)

 

南無阿弥陀仏