聞き合い、仏様に聞く

思えば、先月、私が仏教会の4月の会報用の法話を書いていた時にちょうど新型コロナウイルス対策のための不要不急の外出禁止要請が始まりました。その時点では、これからどうなるのだろうという不安はありましたが、新型コロナウイルスが世界中でこんなに数多くの人々が感染するとは想像もしていませんでした。今、仏教会の5月の会報用の法話を書いているところですが、今朝「新型コロナウイルスがアメリカにおける死亡原因の一位に上りそうだ」というタイトルの記事をワシントンポスト新聞で見かけました。国内外で数多くの方々が感染し、命を落とすケースも少なくないという現状は本当に悲しいことです。しかしこのような不安と恐怖の中でも私たちは親鸞聖人の教えに耳を傾けることによって安心をいただくことができます。

この間、有難く読ませていただいた親鸞聖人のご消息は飢饉と疫病によってたくさんの人々が亡くなっていた時代に書かれたもので、親鸞聖人のそのお言葉を今の大変な状況の中で読みますと心に響いてくるものがあります。

何よりも、去年から今年に欠けて、 老若男女を問わず多くの人々が亡くなったことは、 本当に悲しいことです。 けれども、 命あるものは必ず死ぬという無常の道理は、 すでに釈尊が詳しくお説きになっているのですから、 驚かれるようなことではありません。

(『親鸞聖人御消息16』現代語訳)

親鸞聖人は先ず「本当に悲しいことです」と述べられます。この言葉で親鸞聖人がお別れにあった人々の悲しみをやさしく分かち合っておられるのが分かります。そして、生まれるものは必ず死に至るという無常の道理はすでに釈迦様が詳しく説かれているので、驚くようなことではありませんと述べられています。しかし、新型コロナウイルスで亡くなられた数多くの人々のこと、またこの大変な状況の中でも一生懸命患者の命を救おうと命懸けで働き続けてくれている医療従事者のことを考えると、私はどうしても驚いてしまいます。自分の幼い娘が1819年の天然痘で死別した小林一茶はつぎの句を詠んでいます。

 

露の世は露の世ながらさりながら

 

生老病死は全ての人が必ず出会う苦しみであるという釈迦様の教えを聞き、それを信じても、まだ悟りの智慧が整っていない凡夫の私にはお別れの時は悲しみと驚きの気持ちが心に満ちて溢れてきます。

では、病気と死別から逃げることが出来ないこの世の中に生きている私たちはどこから安心をいただけるのでしょうか?親鸞聖人は、阿弥陀如来による本願を信じる人は必ずお浄土に往生して苦しみから解放されるとした誓願を勧められており、私たちはこの阿弥陀如来による本願を信じること、つまり信心によって安心をいただくことができるのです。

わたし自身としては、 どのような臨終を迎えようともその善し悪しは問題になりません。 信心が定まった人は、 本願を疑う心がないので正定聚の位に定まっているのです。 だからこそ愚かで智慧のないわたしたちであっても尊い臨終を迎えるのです。

(『親鸞聖人御消息16』現代語訳)

私のように智慧のない世の中の苦しみに沈んでいる人がいるからこそ阿弥陀如来は本願を立てられました。「南無阿弥陀仏」のお名号を聞きますと生きることにも死ぬことにも恐れはいらないという安心をくださる仏様の呼び声を聞くことが出来ます。

お念仏に生かされるとは喜びの時にも悲しみの時にも仏様の呼び声を聞くということです。お念仏を共に喜ぶ仲間と共に聴聞することは大きな安心を与えてくれますが、今は不要不急の外出禁止要請によりなるべく人と会わないように規制されているので、今まで通りの聴聞はできなくなっています。それでも、仏教会の仲間と共にお念仏を喜ぶことは今も続いているのです。

この一ヶ月の不要不急の外出禁止要請の間に、仏教会の仲間は電話やEメールを使ってお互いに声を掛けたり、外出が出来ない方を助け合ったりしています。そしてテレビ電話や電話で話し合う法座に参加することによって、心配や不安を聞き合っています。お互いに不安を聞き合うことによって、仏様は全ての人の不安を聞き、皆一人ひとりに安心を与えるため本願を建立されました。お名号を聞くことによってその金剛の信心をいただくことで、大変な世の中にいても本当の安心をいただくことが出来るのです。

 

南無阿弥陀仏