ブッダが布教をされていた時、チュンダという鍛治工の子がいました。その時代、鍛治工は身分の低い仕事でしたが、チュンダは綺麗なマンゴー林を持っており、ある時ブッダはそのマンゴー林に泊まりました。王子として生まれたブッダのような身分の高い人が身分の低い鍛治工と交流することは殆どなかったので、チュンダはとても光栄に思いました。
チュンダはブッダが説かれた教法をとても喜び、ブッダとその弟子を自分の家で食事をするように誘いました。ブッダは黙ってその誘いを受け入れ、チュンダは立派なご馳走を用意してくれました。
ご馳走の中の一つの料理はたくさんのきのこで出来ていました。そのきのこの料理が出された時、ブッダはその料理を自分だけのものとして、一緒に来た仏弟子には他の料理をあげるように言いました。ブッダはそのきのこ料理を食べ終わると、この料理は既に悟りを開いた人だけが食べられる。」と言い、チュンダに残りは穴に埋めるように言いました。
食事が終わって、ブッダは弟子のアナンに「今からクシナーガーラに向かいます。」とおっしゃいました。その旅の途中、ブッダは体調を崩し、何度も休憩が必要で、何度も飲み水を頼みました。そして、クシナーガーラに着くと、ブッダは沙羅樹の一双の間で足と止め、頭を北の方角に、顔を西向きにして横たわられました。そしてその姿勢のまま、この世での肉体の存在の制約から完全に離れられ、入滅されました。
ブッダは入滅される前、アナンに次のメッセージをチュンダに伝えるように言われました、「もしかすると、誰かが〈ブッダはチュンダが布施した食べ物を食べた後に入滅したから、その布施には功徳がない〉というかもしれないが、そのような事は決してありません。特別な功徳がある食べ物の布施には二種類あります。一つはブッダが悟りを開く直前に布施する食べ物、もう一つはブッダが入滅する直前に布施する食べ物です。」
ブッダはチュンダが用意したきのこの料理を食べた時、この食べ物は体調を壊すと分かっていたので、それは既に悟りを開いた人だけが食べてよいものだと言われたのでした。その時、既に悟りを開いていたブッダにはそれを食べて体調が崩れても、憎しみの気持ちは起こらないと分かっていたのです。そのため、どんなに体が痛くてもブッダの心は安穏で憎しみの心はありませんでした。この時のブッダの穏やかな心に、仏法の本当の力が見えてきます。仏法には奇跡的に病気を防ぐ働きはありませんが、仏法の力によって、困ったことや苦しいことがあっても憎しみの心を起こすことなく、安穏な心をいただくことができるのです。
南無阿弥陀仏を称えることは、ブッダの大慈悲の心を人生の心の拠り所とするということです。むさぼりに流さることのないブッダは、人生の全ての因縁を心穏やかに受け入れました。いかりに流さることのないブッダは、チュンダに対し憎しみの心を起こすことはありませんでした。おろかさに流さることのないブッダは、身分の低いチュンダからのお布施をありがたく受け取りました。私たちの人生で本当に大変な時に、ブッダは智慧の光を照らし、憎しみや怒りのない大慈悲の心に私たちを導いてくださるのです。
南無阿弥陀仏