智慧の灯

私は寝る時必ず廊下の省エネライトをつけて、寝室の部屋のドアを少しだけ開けたままにしておきます。私は中学生になると、いつの間にか幼い頃から使っていたスヌーピーの常夜灯を使わなくなり、なるべく部屋を暗くして寝るようになりました。それ以来、少しでも光が部屋に入ると、なかなか眠れなかった私ですが、十年程前からその習慣にまた変化がありました。それは開教使として初めて赴任したオックスナード仏教会の開教使住宅で、妻とカリフォルニアでの生活を始めた頃でした。その前は日本の京都で暮らしていて、その時はアパートに二人で住んでいたので、オックスナードの広い一戸建ての家での暮らしはとても新鮮でした。なぜなら、京都のアパートの全体の広さはオックスナードの家のキッチンとバスルームを合わせた広さと同じぐらいのものだったからです。

オックスナードに住み始めた頃、子供はまだ生まれていなかったので、私は毎晩朝までぐっすり熟睡出来ていました。小さい子供がいる家庭の親が夜中子供が泣いたりするとすぐに気づく耳はその時の私にはまだありませんでした。ある晩、夜中に爆睡していると、耳が破れそうになるほどの高い音のアラームが部屋を出たところの廊下で急になり出しました。私はその音に驚いて、ベッドから飛び降りてドアの方に向かって何の音かを調べに走りました。真っ暗な部屋の中で焦って走ったので、ドアがベッドからどのくらい離れているかの距離感も部屋の中の家具などの配置も全く分からず、走りながらドアの横の壁に顔をひどくぶつけてしまいました。そして後ろによろめきながらも手探りで何とか電気のスイッチを見つけることが出来ました。電気をつけてドアを開けると、煙警報器から音が出ていたことが分かり、そして電池を換える時を知らせる点滅がついていました。それで椅子に登って、電池を取り出すとようやく音が消えました。それからキッチンに行って氷をタオルに包んでベッドに戻り、顔を冷やしながらいつの間にかまた眠っていたのを覚えています。

今の時代はスイッチ一つを押せば、瞬間的に廊下が明るくなりますが、大昔の人々は提灯(ちょうちん)などの灯を使って暗い所へ光を運んで暮らしていました。仏様の教えはよく心の無明を追い払う智慧の灯と例えられます。日本の仏教徒はお盆の時期に提灯を飾る習慣があります。そのいわれはお盆の三日間の間に生死に流転しているご先祖様が家に戻られ、家族と共に過ごせるようにと提灯を吊るして家への道を照らすためという説があります。

その一方、親鸞聖人が説かれる他力念仏の教えにおいては、阿弥陀如来に帰依する人はこの世の命が終わると、速やかに極楽に往生し生死の迷いから解放されると言われています。極楽に往生されたご先祖様は既に生死から解放されているので、お盆にサンマテオ仏教会で飾る提灯はご先祖様の歩むべき道を照らすものではありません。むしろ、無明でよく迷っている私たちこそ正しい道を照らす光を仰ぐ必要があります。迷いの暗闇の中でいつも走り回っている私は怒りとむさぼりと愚かさの壁によくぶつかります。私の心が転じて仏法の光を仰いでいなければ、いつまでも煩悩によって苦しむことでしょう。『浄土和讃』にて親鸞聖人は次のように述べられています。

 

智慧(ちえ)の光(こう)明(みょう)はかりなし

有(う)量(りょう)の諸相(しょそう)ことごとく

光(こう)暁(きょう)かぶらぬものはなし

真実(しんじつ)明(みょう)に帰(き)命(みょう)せよ

 

阿弥陀仏の智慧の光明は限りがない。

迷いの世界のもので、

その光に照らされないものはない。

真実の智慧の光である真実明に帰命するがよい。

 

今年のお盆では提灯を飾る際に、苦しみから解放への道を照らす智慧の光を仰ぎ、既に往生を遂げられた方々を想い、感謝のお念仏を申しましょう。その方々をお偲びすることによって、一年を通してご先祖様が日々私たちを導いてくださっていることに気づくことが出来るでしょう。

 

南無阿弥陀仏