昨年の三月からの16ヶ月間、新型コロナウイルスの対策のために、これまでなるべく外出を控えていましたが、今年の夏はようやくパンデミック前の楽しいアクティビティのある生活に少しずつ戻って来ているようです。そこで、この間、久しぶりに家族でサンマテオカウンティフェアに遊びに行ってきました。フェアにいる間、マスクはずっと付けていましたが、色々な匂いが漂っていてこれまでの色々な懐かしい思い出が浮かんできました。バーベキューやフライドポテトの匂いで、以前家族でフェアで過ごした楽しい時間を思い出しました。そして、農業展示場の豚やヤギ、牛などの家畜の匂いで、夏休みにアイオワ州に住んでいる親戚のファームに遊びに行った時のことを思い出しました。初めて息子を連れてアイオワの叔父のファームを訪問した際、叔父と叔母が飼っている牛の小屋を案内してくれていると、まだ幼かった息子は「臭くないところはある?」と叔母に尋ねました。すると、叔母は「ここは農場だから、匂いはしょうがないんだよ」と笑いながら答えました。
その時、ミネアポリス郊外で育った私が幼い頃、その小屋を案内してもらった時の思い出が浮んできました。私が牛の匂いが気になってずっと鼻をつまんでいたことに気づいた叔父は「その匂いは何だと思う?」と私に聞きました。「牛のうんちでしょ。」と私が答えると、叔父は「いや、それはお金の匂いだよ。」と言いました。牛がうんちをするのは健康な証拠です。うんちがたくさんあることは、健康な牛がたくさんいるという証拠です。健康な牛はたくさんの牛乳を与えてくれます。その牛乳は農家の生計になります。つまり、牛の匂いが強いファームは農家にとって上手くいっているファームと言えるわけです。
日々私たちは、眼、耳、鼻、舌、肌、脳の六つの感覚器官(六根)によって身の周りの世界を経験しています。そして、一日の中で見るもの、聞くもの、匂うもの、味わうもの、触るもの、そして記憶するもの全てにそれぞれ好き嫌いをつけ、好きなものを追いかけて、嫌いなものは避けようとする傾向にあります。私にとって牛のふんは臭くて出来れば避けたいものですが、叔父と叔母にとってそれは牛が健康で農場が盛んになっているありがたい証拠なのです。
サンマテオ仏教会の本堂のお内陣の真上には、「見真」という文字が入った額が掛けてあります。「見真」というのは「真を見る」と言う意味で、仏様の教えを信じていれば、自分の真の姿が見えてくると言うことを表しています。お念仏の中に生かされている人は、一日中どこにいても、何をしていても「南無阿弥陀仏」を聞き、「南無阿弥陀仏」を称え、六根に執着したり、避けたりしない阿弥陀仏の御心をいただいています。仏様のお心は見るもの、聞くもの、匂うもの、味わうもの、触るもの、そして記憶するものそれぞれに好き嫌いをつけることはありません。
百年ぐらい前、因幡の源左という妙好人がいました。源左は昼でも夜でも、歩いていても、立っていても、座っていても、横になっていても、どのような時、どのような場所、どのような状況であっても「南無阿弥陀仏」を称えていました。ある夕暮れ、源左が大雨に降られ、びしょ濡れになって家へ帰っている途中、一軒のお寺がありました。そこの住職は外からだんだん大きく聞こえてくるお念仏の声に気づき軒下へ出ると、びしょ濡れで雨の中を歩く源左が見えました。住職が「爺さん、よう濡れたのう。」と言うと、源左は「ありがとうござんす。ご院家さん、鼻が下向いとるで、ありがたいぞなあ。」と答えました。お念仏の中に生かされていた源左は仏様のお心をいただいて、六根に流されることなく、この尊い命を生かされていることへの感謝の念が常に心にあったのです。
南無阿弥陀仏