浄土真宗では、日本の江戸から明治時代を生きた妙好人という信心深くありがたい人々がおられ、尊敬されてきました。その妙好人の一人に庄松(しょうま)という男がいました。庄松(1799〜1871)は四国の讃岐で使用農夫として雇われたり、草履を編んだりして、素朴な生活を送って暮らしていました。庄松は近くのお寺の勝覚寺の住職によく可愛いがられ、よくお参りに行っていました。勝覚寺は京都の本山興正寺(当時本願寺派に所属された)の末寺でした。
庄松は初めて京都の本山、興正寺にお参りした時に、五、六人の同行に連れられ参拝し、おかみそり(帰敬式)を受けました。梯實圓先生はおかみそりを次のように説明されています。「帰敬式というのは仏前で「南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧」と唱え、「今日からわたしは仏陀(ほとけ)を心の依りどころとして生き、仏陀の説かれたみ教え(法)を人生の指針と仰ぎ、仏陀のみ教えを実践するなごやかな集い(僧)を心の支えとして生きていきます」と誓う、仏弟子となるための入門の儀式のことです。そのときにご門主が一人ひとりの頭に三度カミソリをあてて、剃髪の儀礼をされることからこれを「おかみそり」と呼ぶのです。」(『妙好人のことば』より)
ご門主が順番に移動しながら、庄松のおかみそりを済ませた後、次の者に移ろうとした時、庄松はご門主の法衣の袖を引き止め「アニキ覚悟はよいか」と申しました。
ようやくおかみそりの儀礼が全部済むと、ご門主は「今我の法衣を引っ張った同行をここに呼べ」とおとりつぎの僧侶に命じました。そのおとりつぎの僧侶はたくさん集まっている同行の中に出て、「今ご門主の法衣を引っ張った同行はどこにいるか?ご門主の前に出よ。」と言いました。それを聞いて、当の庄松は平気な顔をしていましたが、まわりの同行らはびっくり驚いて、「ああ、すみませんでした。大変無礼なことをしてしまいました。こんなことがあると知っていたらこの者を連れて来なければよかった。こんな者をここに置いて帰ることも出来ないので、我々よりお許しお願いいたします。この者は馬鹿でお金を数える事さえ知りません。この者のご無礼をどうかお慈悲でお許し願います。」と言いました。
おとりつぎの僧侶は「そうですか。」と言って、ご門主のところに戻り、同行たちに言われたことを伝えますと、ご門主は「それはどうでもよい。一度その者をここへ連れて来い。」と命じました。同行はしかたなく庄松をご門主の前へ連れて来ました。庄松は礼儀作法も知らないため、ぺったりとあぐらをかいて座りこみました。
その時ご門主は「さっき私の法衣の袖を引っ張ったのはおまえであったか?」と尋ねました。
「ヘエ、おれであった。」
「何と思う心から引っ張ったか。」
「ご門主が今着ているような赤い衣を着ていても、赤い衣で地獄を逃れることは出来ないので、後生の覚悟はあるのだろうかと思って言った。」
「そう、その心を聞きたいがためにおまえを呼んだのだ。私を敬ってくれる者は沢山いるが、私の後生について意見をしてくれた者はおまえ一人じゃ。よく意見をしてくれた、ところでおまえは信心をいただいたか?」
「ヘエ、いただきました。」
「ではどうのような信心を得たのか一言申せ。」
「なんともない。」
「それで後生の覚悟はよいのか。」
「それは阿弥陀さまに聞いたら早く分かる。我の仕事じゃない。我に聞いても分かるものか。」
ご門主は庄松の答えを聞き、非常にご満足なされ「阿弥陀様に頼む、それより他はない。自分の能力に頼んではならない。お前は正直な男じゃ。今日は兄弟の酒を注ぐぞ。」と言って、召使のものを呼び、酒を取り寄せご門主のお酌でご馳走しました。
それからも庄松はご門主に度々会うこととなりましたが、この世のことをよく忘れることがあったので、ご門主はその訳を書いて庄松の腰にくくりつけて讃岐に帰らせました。その後も庄松は京都に行く度に、毎回「己(おれ)の行く所はどこじゃ、どこじゃ。」と呼んだので、それを見つけた者が直ぐに庄松をご門主の前まで案内してくれたということです。
サンマテオ仏教会では2019年9月22日(日曜日)に秋のお彼岸法要を行います。お彼岸は今自分が歩んでいる人生の方向を再確認し、仏法を聞きながら日頃の生き方をかえりみるのに丁度よい季節です。庄松のようにこの世のことを迷わせず、真であるものに気づかせてくれる同行に出会うことがあれば、そのご縁を大切にして、共にお念仏を喜び合う人生を歩むとしましょう。
南無阿弥陀仏