仏の大悲心を学して

2018年5月20日9時半から宗祖親鸞聖人の誕生を祝う降誕会がサンマテオ仏教会にて行われます。私が親鸞聖人とその教えの出会いのお陰で人生の方向が転回した事を振り返ってみますと、ちょうど10年前に中央仏教学院に入学し、いよいよ本格的に開教使になるための勉強を始めた頃を思い出します。

お昼休みの時間は、教室で新しい仲間の入学のきっかけやそれまでの経験話を聞きながら、お弁当を食べたものです。クラスで一番年上の方は仏教が趣味であった退役消防士でした。もう一人はコンピュータープログラマーの仕事をやめてこれから旦那さんの実家のお寺の手伝いをするために仏教を学ぶ新婚の女性でした。何人かは大学を卒業した後、自坊に帰ってずっと働く前にもう少し学生の生活を楽しみたい地方のお寺の後継でした。一人のお寺の息子は「仏教学院を卒業したら、車を買ってやる。」とお父さんと約束したから入学したそうです。

さすがに日本の社会人経験をした学院生は真面目に勉強に励みました。定年退職をした学院生は苦労して蓄えた貯金を使って長年の夢を実現していた。しかしながら、生まれたときからお寺を継ぐ事が定めていた人の中に、音楽、ファッション、スポーツなどの夢を諦めないといけないのが悔しくてしょうがなかったようです。各クラスに一人二人は人生の方向をまだ迷っている青年らがいました。

講義の時、多くの学院生がノートを取りながら、先生の話を聞いていましたが、大抵一人二人は居眠りをしていました。学院に慣れてくると、たまに頭を机の上に乗せて寝ている学院生もいました。ご法義を学ぶ貴重なチャンスをありがたく思っていた真面目な学院生らはそういう無礼な態度を取る者に腹を立てたこともありました。

ある日、学院のお勤めを担当していた大八木正雄先生は、勤式(ごんしき)愛好会という部活のメンバーと一緒に食事に行かれました。お酒の席で一人の真面目な学院生が講義中に居眠りをしたり、携帯電話で遊んだりするクラスメイトの愚痴をこぼしていると、大八木先生は軽く笑いながら黙って聞いておられました。その真面目な学生は学院が勉強にもっと励みたい学院生を一つのクラスにして、もっと深く学ばせるというのはどうですかと提案しました。それまで私が経験してきていたアメリカの学校ではそういうやり方は通常だったので、自分もその考えに「いいじゃないか」と思いました。

しかし、大八木先生はその提案を聞くと、真面目な顔で次のように言われました。『この学院は世間の常識ではなく、仏法を学ぶところです。学院のモットーは「学仏大悲心(仏の大悲心を学して)」であり、阿弥陀如来の大きなる慈悲の心は全ての人を分け隔てなく平等におさめとっているので、学院側に「優れている」や「劣ってる」という分け隔てをつけることは出来ません。その居眠りしている学院生は不思議なご縁によって、私たちの学院に入った事を忘れてはいけません。頭を机の上に乗せて、寝ている姿に腹が立ったら、その人がその時に学院にいなかったら、どこにいて、何をしているのかを考えてみてください。それまでに歩んできた人生の道がその教室に至ったことを考えてみれば、そこで寝ているだけでも素晴らしいご縁なのです。』

その学院生活をいま振り返ってみると、教義やお勤めのスキルだけではなく、他人も自分も分け隔てなく受け入れる阿弥陀如来の大悲の心も学ばせていただいていたのです。

中央仏教学院のモットーは善導大師が「帰三宝偈」に述べられた次のお言葉から来ています

われらことごとく三乗等の賢聖の、仏の大悲心を学して、
長時に退することなきものに帰命したてまつる。
(『浄土真宗聖典 七祖篇(註釈版)』 298頁)

降誕会の季節に、親鸞聖人の生涯を振り返りながら、自分自身の人生の歩みを省みますと、初めて仏法を学ぶ初心者の広くて謙虚な心の大切さに気づかされるのであります。

南無阿弥陀仏