人々を救おうとする仏の深い誓い

1206年の十二月、後鳥羽上皇が熊野に参詣のため留守の間、上皇の女房である鈴虫と松虫は法然門下の安楽房と住蓮房の専修念仏の集いに参加していました。女房らはお念仏の教えを聞いた後、心が転換し、そこで出家したそうです。

鈴虫と松虫が出家したことを知ると、上皇は腹を立て、安楽房と住蓮房を含めた法然聖人の門下四人を死罪に処し、法然聖人と親鸞聖人を含めた八人を流罪にしました。法然聖人は四国の方に流罪となり、残りの七人は僧籍を取られ、越後や九州、日本中に配流されました。その時、法然聖人の門下は悲しく思いましたが、法然聖人はこれもお念仏のご縁ですとお教えになられたそうです。法然聖人は流罪になった時、次の言葉を述べられています。

流刑は、決して恨みに思ってはなりません。その訳は、私の年齢はもう八十に近くなっています。たとえ師弟が同じ都に住んでいても、この世の別れはきっと近くにあります。たとえ山や海を隔てようとも、浄土での再会をどうして疑いましょうか。また、この世をいとうといっても、生き永らえるのが人間の身です。惜しんでも死ぬのは人間の命であります。どうして住んでいる場所によることがありましょうか。そればかりでなく、念仏を広め行うことは、京都では長い年月を経ました。だから地方へ行って農民たちに念仏を勧めることは長年の願いでありました。しかし、その時が到来しないで、願いを果たしていません。このたびの縁によって年来の本意を叶えることは、実に朝廷のご恩だと言えます。この教えが世に広まることは、人がおしとどめようとしても、教えは決してとどまるものではありません。諸仏は人びとを救おうとする誓いが深く、人の目に見えない諸天は仏法を守護する約束を固くしています。それゆえ、どうして世間の非難に遠慮して経文や釈文の真意を隠すことが出来ましょうか。ただし、心を痛めていることは、わたくし源空がおこした浄土の法門は、濁世末代の人びとが間違いなく迷いの世界を抜け出す大事な道でありますから、常に従って守る天の神・地の神や、目に見えない神仏が、きっと非道な妨げをおとがめになるのではないかということです。命あるものは、この因果の道理が間違いないことに思いをいたすべきでしょう。因縁が尽きなければ、どうしてまた今生で再会することがないでありましょうか。」

(『現代語訳 法然上人行状絵図』第三十三巻 第三段)

法然聖人が流罪になった時、きっと門弟たちは怒りと恨みの思いを抱いていたことでしょう。しかし、親鸞聖人と他の門弟たちは法然聖人の教えを疑いなくいただいていたおかげで、流罪がご縁となって、お念仏は京都だけでなく、越後、関東、九州など日本各地に響くようになりました。この流罪の不道が仏法が広まるご縁となったのです。現在においても不道の事件は次々と起こりますが、法然聖人と親鸞聖人のように仏法の真実をよりどころとすれば、阿弥陀如来の智慧と慈悲の働きによって私たちの人生をはじめ、この世の中は安穏になるのです。

南無阿弥陀仏