慈しみあわれむ親様

五月は母の日をお祝いします。「母親」と言うと、ある人は生みの母を思い浮かべるでしょうが、ある人は生みの母ではなく、自分に優しくしてくれた方を思い浮かべるでしょう。一人の御門徒さんはご自身の生みの母の近くにはお住まいではないものの、「お寺の婦人会にお母さんがたくさんいます。」と、よくおっしゃっていました。そして、婦人会の方に何か注意された時には、「はい、お母さん、分かりました!」と返事し、何か手伝ってもらった時には、「お母さん、ありがとうございます!」と言っていました。彼女の言う「お母さん」という存在は、生みの親ではなく、自分のことを思ってくれる存在を意味しています。

親様という存在は生まれの父母に限りません。五月は宗祖親鸞聖人生誕の日を祝う「降誕会」をお勤めします。親鸞聖人は九歳の時に青蓮院にて出家し、20年間、修行の生活をなされました。親鸞聖人は幼い時に親の下を離れたものの、聖人の心には「親様」という存在は大きかったようです。そのことについて、『親鸞聖人御消息』に次の言葉があります。

善導大師の 「般舟讃」 という書物を拝見しますと、「釈尊と阿弥陀仏は、 わたしたちを慈しみあわれむ父・母であり、 さまざまな手だてによって、 この上ない信心を開きおこしてくださるのである」 と示されており、 真実の信心が定まるのは、 釈尊と阿弥陀仏のはたらきによることが明らかです。

(『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 現代語版』95頁)

釈尊と阿弥陀仏のように、わたしたちを慈しみあわれむ親様は生まれの父・母に限りません。阿弥陀仏は常に私たちを救うために働きかけている存在であるため、親様と呼ばれます。この親様は形や性別にとらわれるものでもありません。

慈しみあわれむ親様のありがたさについて、信心深い方々を紹介する本『信者めぐり』の中に、おそのという信女についての次のエピソードがあります。ある時、おそのは本願寺にお参りに行き、茶所に腰をかけ、そこで仏様の教えのことで盛り上がりました。その時、一人のお坊さんがおそのの背中をポンとたたいて、「ここはどこぞとおもうや、御本山の前じゃないか、ウカウカしゃべるな、無常の風は後より来るぞ」、と大きい声で注意しましたところ、おそのは後ろを向きながら、「親様に御油断があろうかなあ」と答えました。

私の心は集中力に限りがあり、欲や嫌悪に直ぐに惑わされてしまいがちです。私がどれだけ周りのニーズに気がついているかを振り返ってみると、それは実際以上に少なく、これはどれだけ周りのニーズよりも自分のことを優先して考えているかを示します。しかし、阿弥陀仏の心は常に平穏で、常に衆生を思っておられます。私が周りのニーズに気を配ることに油断したとしても、阿弥陀仏の衆生への親心は油断することはありません。

私たちを思い続けてくれる親様は生みの親かもしれないし、婦人会の仲間であるかもしれません。阿弥陀仏は「無量寿仏」とも表され、いつまでも私たちが安心して暮らせるために働きかけてくれています。また阿弥陀仏は「無量光仏」ともいわれ、どこに行っても安心への道を照らしてくれます。阿弥陀仏という親様は油断することがありません。私たちはこの阿弥陀様の働きかけに対して「南無阿弥陀仏」を申してこの親様への感謝を表しましょう。

南無阿弥陀仏