この間、大学のときの法友に十年ぶりに会いました。久しぶりに会ったのにその友達との親しみは少しも変わっていませんでした。大学時代の思い出話を笑いながら、ずっと会っていないという感じがしませんでした。そして、お互いの最近の事情の話になると自然にそれぞれの子供のおどけたエピソードやベビーカーは軽くて畳やすいタイプか頑丈で押しやすいタイプのどっちがいいかという育児の話題になってしました。
会っていない間にそれぞれの経験と成長をしてきた訳ですが、久しぶりの会話の中にまた新に気が会うことに気づきました。大学時代以来、因縁によってそれぞれの違う道を歩んできましたが、お互いに同じ智慧と慈悲の道理が人生のよりどころとしているので、同じ方向に向かって歩んできました。向かっている方向が一緒だから、きっと最終的に同じところにつくでしょう。
浄土真宗の教えを仰ぐ私たちにとっては、『仏説阿弥陀経』に釈尊が説かれた次の言葉は意味深いです。
舎利弗よ、このようなありさまを聞いたなら、ぜひともその国に生まれたいと願うがよい。そのわけは、これらのすぐれた聖者たちと、ともに同じところに集うことができるからである。
(浄土真宗聖典 浄土三部経 現代語訳 223頁)
このお言葉に倶会一処(くえいっしょ)の教説といい、阿弥陀如来の本願を信じ喜んで、念仏を申す人々はこの世の命が終わったら、皆必ず阿弥陀如来のお浄土に往生して、そこで先立った同朋と集うことができるということです。お別れの悲しいときに、先に極楽往生の素懐を遂げられた方々がお浄土でお待ちになっていることに安心をいただきます。
このように親鸞聖人の御消息に次の言葉があります。
閏十月一日付のお手紙、確かに読みました。覚念房のことは、あれこれと思われて言葉もありません。きっと親鸞が先立つであろうと、その時を待っておりましたのに、覚念房も先年なくなりましたが、きっと間違いなく先に浄土でお待ちになっていることでしょう。みな必ず浄土に往生させていただくのですから、何も申しあげることはありません。覚念房が仰せになっていたことは、この親鸞の思いと少しも異なるものではありませんから、必ず同じ浄土に往生することができるのです。来年の十月頃まで生きておりましたら、きっとこの世でお会いすることもあるでしょう。あなたのお心もわたしと少しも異なるものではありませんから、先立って往生してもあなたを浄土でお待ちしております。
(浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息 現代語訳 59頁)
親鸞聖人が同朋と同じ信心をいただいていることをここで明らかにしています。その信心は阿弥陀如来の本願によっていただく信心ですので、この世の命が終わったらその信心をいただいている人は必ず皆同じお浄土に往生することを明らかにしているのです。
お念仏に生かされる人は必ず阿弥陀如来のお浄土で再会する教えはお別れの悲しいときに安心を与えますし、同じ信心をいただく人はともに安楽の世界に向かって歩んでいるありがたい仲間であることを明らかにしています。人生の向かっている方向が決まることによって、どんなに大変なことがあっても、力強く向き合うことができ、如来の光が照らす道を歩み続けられるのです。
南無阿弥陀仏