浄土のはなよめ

十月にサンマテオ仏教会で念仏に生かされたご婦人方をお偲びします。その一人に江戸時代の終わり頃、山口県六連島に住んでいたお軽(かる)(1801〜1856)という妙好人がいました。

お軽は若い時は気が強いことでよく知られました。19歳の時に結婚しましたが、夫は仕事で下関や北九州に行って、お軽をおいて長く島を離れることがよくありました。お軽はそのことを恨み、島の唯一のお寺の住職に相談したところ、住職が言ったこととは、その夫との間の問題が仏法を訪ねるご縁になったことに感謝すべきだという意外な答えでした。

それからお軽はよくお寺にお参りし、仏法を聞き、ありがたい念仏者になりました。人間の先入観はなかなか離れないので、周りの人たちはお軽の心の転回をすぐには受け入れられませんでした。お軽は常に阿弥陀如来の浄土に心を向け、外面的や世俗的なことに興味を示さず、変わり者としてよく扱われました。

六連島では、五月五日の節句は唯一漁が許される日だったので、その日は誰もが海にハマグリやウニを獲りに行きました。お軽もそれに参加し、必死にたくさんの貝類をとりました。それを見た島の人たちは「よくお寺参りをするくせに、私たちよりも殺生をしている。」とお軽をあざ笑いました。

その夜、島の人たちはその日に取った貝を料理し、それぞれの家の前に貝殻の山ができました。お軽もたくさんの貝を取りましたが、家の前に貝殻は一つもなかったので、気ちがい婆々が貝殻ごと食べていると噂しました。

しかし、その夜遅くに一人の人が余った貝を新鮮に保つための海水を取りに浜に行った時、誰かが木の桶から何かを取り出して、海に入れる姿を見ました。近づいて見ましたら、貝を海に戻しながら、「怖い思いをさせてごめんね。助けられたのはあなたたちだけ、本当にごめんね。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」と言っているお軽でした。

島の人はお軽をあざ笑いましたが、お軽は人の目を気にしませんでした。必ず阿弥陀如来の浄土に往生する信心が定まったので、お念仏の安心に生かされました。そのように次の詩を読みました。

きちがい婆々といわれしわれも

              やがて浄土のはなよめに

(『妙好人おかるの歌』6頁)

 

南無阿弥陀仏