かぎりなき生命

この一ヶ月の間に悲劇的な災害が相次いで起こり、一つの災害の収束を待たずして次の災害が起きています。災害で身内の方を亡くされた方々に、サンマテオ仏教会を代表してお悔やみを申し上げます。無量の慈悲の働きによって別離の悲しみが癒されますことを心より願っております。このような大変な時にこそ、人生の正しい方向を示して下さるよりどころを仰ぐべきではないでしょうか。私のよりどころは仏様の教えとその教えに照らされていた方々の人生です。

九条武子様(1887〜1928)は偉大な詩人であると同時に仏様の智慧の光に照られた人生を送られた方でした。1923年の関東大震災の際には救援活動に積極的に取り組まれました。震災の経験について次のように述べていらっしゃいます。

 

 四面(しめん)、炎(ほのほ)につゝまれたなかに、纔(わづ)かに生(せい)をとゞめてゐる人(ひと)たち、――そこには貴(たふと)きも賤(いや)しきも、学問(がくもん)ある者(もの)もなき者(もの)も、老(おい)たるも若(わか)きも、凡(およ)そ世(よ)のありとあらゆる階級(かいきふ)、あらゆる種類(しゆるゐ)の人(ひと)たちがゐた。
 しかし、刻々(こくこく)に迫(せま)る惨(いた)ましき運命(うんめい)の前(まへ)に臨(のぞ)んで、心(こゝろ)から念(ねん)じられるものは、みな一様(いちやう)であつた。
 久遠(くをん)の生命(せいめい)へ。――
 それは、一切(いっさい)の仮象(かしやう)から放(はな)たれた者(もの)の、最後(さいご)の願(ねが)ひであつた。人生(じんせい)最後(さいご)の念願(ねんぐわん)においては、貴賤貧富(きせんひんぷ)の差別(さべつ)はない。

(『無憂華』 108頁)

 何人(なんぴと)も久遠(くをん)の生命(せいめい)を慕(した)ふ心(こゝろ)に燃(も)えてゐる。しかし何人(なんぴと)も瞬間(しゆんかん)の幻滅(げんめつ)になやまされがちである。久遠(くをん)へとあこがれるわれらの現実(げんじつ)は、つねに幻滅(げんめつ)への連続(れんぞく)であるところに、人生(じんせい)の皮肉(ひにく)な悲哀(ひあい)がある。
 世(よ)に久遠(くをん)を説(と)く者(もの)の、如何(いか)に多(おほ)いことであらう。しかしながら、過(す)ぎし日(ひ)の経験(けいけん)と、なやましき現実(げんじつ)とを無視(むし)して、自由(じいう)に創作(さうさく)するところに、かぎりなき生命(せいめい)を見出(みいだ)すのではない。たゞ、久遠(くをん)の光明(くわうみやう)に照(て)らし出(だ)されてゐる、現実(げんじつ)をかへりみるもののみ、光(ひかり)ある営(いとな)みが与(あた)へられる。須叟(しゆゆ)にして滅(ほろ)び去(さ)るみづからの営(いとな)みが、現(げん)に光明(くわうみやう)の遍照(へんぜう)の裡(うち)に在(あ)ることを思(おも)へば、久遠(くをん)の生命(せいめい)の把握(はあく)は、短(みじか)き瞬間(しゆんかん)の現実(げんじつ)のなかに在(あ)ることが知(し)られる。

(『無憂華』 101頁)

 

11月12日(日曜日)午前11時半から永代経法要を行いますので、是非ご参拝ください。御講師は嶋裕史師です。「永代経」とは「永代読経」の意であり、「先にお浄土に往生された方々を偲びつつ、永代にわたり読経が続くこと」を意味します。また浄土真宗では故人の命日を縁にして仏恩報謝のお念仏に励み、仏法を聞く機会をいただいたことをよろこぶ法要であります。葬儀にあたり、永代経の過去帳に故人の名前を加える際に永代経懇志(お布施)いただきます。先亡者への感謝の念が込められているお布施のおかげで、サンマテオ仏教会は設立以来今日まで続いており、これからも仏教会が存続する限り永代経法要は永遠に続けられます。永代経法要が続くというのは仏教会が仏様のみ教えを聞く場として永遠に機能することを意味します。サンマテオ仏教会が不安定な時代の中にあって全ての人々が心の安らぎを見いだすところとして続くことを願っております。

 

南無阿弥陀仏