悲しみと慈悲

            日本の仏教のお寺の特徴の一つはお葬式や法事が主な行事であることです。ちなみに、多くの人々の経験によると仏教は死との繋がりが強いイメージのようです。私が僧侶になったばかりの頃、若い時にお母さんを亡くした友達に「頻繁にその悲しい場にいるのは大変じゃない?」と聞かれたことがあります。

            死と関わる事は確かに悲しいことです。しかし、「悲しみ」とは私達の救いである仏様の「慈悲」と深い関係があります。親鸞聖人が書かれた『教行信証』に慈悲について次の言葉があります。

「慈悲によって、 すべての衆生の苦しみを除き、 衆生を安らかにすることのない心を遠く離れることである」 と述べられている。「苦しみを除くのを 「慈」 といい、 楽しみを与えるのを「悲」という。 慈によるからすべての衆生の苦しみを除き、 悲によるからすべての衆生を安らかにすることのない心を遠く離れるのである。」

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類 現代語訳』366頁)

では、私たちの生活の中で、慈悲はどのような形で現れるのでしょうか?私たちの生活上の一切の行動は、身体で行うこと、口で話すこと、そして心に思うことの三つ(身口意の三業)で営まれます。例えて言うと、「慈」が「苦しみを除く」とすれば、「身の慈」は相手がお腹が減っている時に食べ物をあげたり、寒い時に毛布を与えることです。「口の慈」は相手を傷つける言葉をやめることやイジメられている人を守るために声を掛けてあげることです。「意の慈」は親しい者と憎しむ者との差別をつけないことや敵と味方との差別をしないことです。

但し、苦しみを簡単に除くことができない場合もあります。例えば、大切な人との別れがあって寂しんでいる人の苦しみを取り除くことは容易でないかもしれませんが、「悲」としてその人と一緒に悲しむことによって、相手を楽に、気持ちを安らかにしてあげることができるかもしれません。「身の悲」は一緒にいてあげるだけで、悲しい時を共に乗り越える支えになれるでしょう。「口の悲」はまずは自分の意見を言わず黙って悲しんでいる相手の気持ちを聞くことや、相手が示す悲しい気持ちを認める言葉をかけてあげることです。「意の悲」は相手の悲しみに気づくこと、そして、相手の苦しみを他人の問題ではなく自分の問題のように受け止めてあげることです。

日頃、自分のことばかりが頭にある私にとって、相手の悲しみや苦しみを自分のものとして考えることは簡単ではありませんが、親鸞聖人が『正像末和讃』に述べられた次の言葉が私の心に響きます。

(しょう)()(しょう)()もなき()にて

()(じょう)()(やく)はおもふまじ

如来(にょらい)願船(がんせん)いまさずは

()(かい)をいかでかわたるべき

わずかばかりの慈悲さえもないこの身であり、

あらゆるものを救うことなど思えるはずもない。

阿弥陀仏の本願の船がなかったなら、

苦しみに満ちた迷いの海をどうして渡ることができるであろう。

阿弥陀仏は私達の悲しみを自分の問題として捉え、全ての人々を救う本願を建てられました。分け隔てなく全ての人々を普く救うことこそが仏様の大悲心であり、仏様の悲しみは一人で悲しむのではなく衆生とともに苦しむという情け深いお心です。その視点から見てみると、悲しみは避けるべき思いではなく、楽を与え、安らかにするための大切な思いと言えるでしょう。

南無阿弥陀仏