気づいたら踊りの真ん中にいる

私が開教使になってから、自分の両親が初めてお盆の時期にミネソタからカリフォルニアに遊びに来たある日の夕方、私が「今から踊りの練習に行ってくるね。行って来まーす!」と言って家を出ようとすると、父親は自分の補聴器を確認して、「ちょっと待って、あなたが踊る分け?」と聞いて、私が「はい、お盆踊りも開教使のお勤めの一つだから。」と答えると、「僕もいくよ。それを見るのは絶対にミスしたくない。」と父はカメラを取ってきて、一緒に練習に向かいました。

私が踊っている時に、もし誰かがカメラを私の方に向けたら、ドキドキします。前にフェイスブックやインスタグラムなどのインターネットのサイトに何回もよく映されたお盆踊りの写真を見たことがありますが、特に印象に残っている一枚には浴衣を着ている方が並んで、皆揃って綺麗に両手を丸く上げて額の上で満月の形を作っているにも関らず、その真ん中の並びにいる私だけが野球の審判のように「セーフ!」の動きをしていたのです。

私が初めて盆踊りの輪に入った時、誰も私の踊りを評価していなかったことに気づいて安心しました。私が踊りに追いつこうと苦労していることに気づいてくれた経験者の方々は、親切に私の隣に来てくれて一つ一つの動作を説明しながらしばらく一緒に踊ってくれました。そのうちに私は自分のプライドや恥ずかしさを忘れて、ただ踊りを楽しむことが出来るようになりました。仏教の目標が我を忘れることと言えるなら、盆踊りはその一つの優れた実践法だと思います。盆踊りはパフォーマンスではありません。踊ることによって我を忘れる事が出来たら、仏法が私たちの人生に働きかけ、心を転回させてくれます。

サンタバーバラという街の市民は踊りと祭が大好きで、初めてサンタバーバラで盆踊りをした時は予想以上に人が集まりました。盆踊りが始まろうとした時、踊りの先生方が美しい夏の浴衣をきて仏教会の駐車場の真ん中で小さい輪を作った途端、すぐに周りたくさんの人がその周りに集まりました。その参加者の半分ぐらいは他の仏教会から踊りに来ていた方々でしたが、盆踊りを見るのが初めてだった方も大勢いました。初めての人達は真ん中の輪にいる浴衣を着た人たちが踊りを見せてくれるだろうと思ったようでギューギューととにかく真ん中の方に近づこうとしていました。

踊るのを目的に来た人たちはあっちこっちに点々とわかれ、真ん中に近いところにも、外側にも、その間にも、ほどよく溶け込んでいました。踊りの音楽が始まると、素晴らしい出来事がありました。踊りの経験者は真ん中にいた先生方に従って踊り出し、間も無く三つぐらいの同心の輪になって周り進みました。すると、見物のつもりで来た人たちは気づくと踊りの真ん中にいたのです。その時、ある人はパニックになって急いで外側の方に移動し始めたり、ある人は「これは面白い!」と喜んで踊りの流れについて行きながら少しずつ踊りに参加していました。その初めて一緒に踊りに加わった方々は盆踊りの楽しさと恐怖から喜びへと心の転回を味わう事が出来たと思います。

自分の思うとおりのことしか受け入れないはからいの心を捨てるのは、本願他力念仏に行かされる人生です。『歎異抄』にはその他力念仏の心が次のように述べられています。

念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには、非行・非善なりと云々。

(『浄土真宗註釈版聖典』836頁)

私たちは自分の都合で踊る時と踊らない時を選ぼうとしますが、人生はなかなか思い通りにはいかないものです。たまに、特に踊りつもりじゃなかったのに、気づいたら踊りの真ん中にいたりします。その踊りは子供の出産や新しい出会いかもしれません。または、その踊りは重病や失職や大切の人とのお別れになるかもしれません。自分の都合のいい時だけ踊ろうとすれば、困ることが多くなりますが、踊りの最中にいることに気ついた時に踊ってみれば、喜びや助け合いの世界が開いてくるのです。

 

南無阿弥陀仏