国宝

5月21日(日曜日)9時半に親鸞聖人のご誕生を祝う降誕会(ごたんえ)を行います。降誕会とは、1173年5月21日にお生まれになられた親鸞聖人とその生涯をしのぶため、毎年5月に行われる法要です。親鸞聖人は9歳の時に慈円和尚のもとで得度(出家)をなされ、それから20年間、天台宗の僧侶として比叡山にて勉学と修行に励まれました。29歳の時に比叡山を降りましたが、後の著書に比叡山で行われた勉学の影響がうかがえます。

日本の天台宗は伝教大師最澄(767~822)によって開かれました。最澄は804年に唐に派遣された団体に加わっており、そこで中国の天台宗を学びました。日本へ帰ると京都の東北にある比叡山にて大乗仏教の僧を育てるために、比叡山寺(後に延暦寺と呼ばれる)を開かれました。

大乗の菩薩僧を育てる寺院の方針として、最澄は「山家学生式」を著して次のように仏道を歩む人は国の真の宝であると述べています。

国宝とは何でありましょうか。宝とは道心であります。道心ある人をこそ、国宝というのであります。故に(支那の)古人は言ったものです、「(戦車の前後を明らかに照らしだす)径寸〈直径3cmの大きな宝玉〉十個があったとしても、それは国宝ではない。千里を照らす一隅を守る者、これがすなわち国宝なのである」と。また、古の哲人は古のようにも言っています、「よく語ることが出来ても、よく行うことが出来ない者は、国師である。よく行うことが出来ても、語ることが出来ない者は、国用である。よく行ってよく語り得る者は国宝である。これら三種三様の人があるが、しかし、ただ語ることも行うことも出来ないような者は、国賊である」と。

すなわち、道心ある仏教者をして、西(の印度)では菩薩と称し、東(の支那)では君子と号すのです。悪しき事柄は自らに向かわし、好ましき事柄を他者にあたえ、己を忘れて他を利することは、慈悲の極みというものです。

(http://www.horakuji.hello-net.info/lecture/nippon/sankegakushoushiki/version.htm)

親鸞聖人は比叡山での修行の間、最澄が述べられた上記の理想な僧侶を目指していたことでしょう。聖人が比叡山を降りた理由については当時の書物などに明らかにされていませんが、親鸞聖人がおられた平安時代末期頃は比叡山に貴族の僧侶が多く、世俗的なことや政治に巻き込まれることが多かったようです。その当時は、比叡山の「僧兵」の武力も強く、都にも多くの影響を与えました。

そういった時代背景により、最澄によって定められた僧侶の心得が重んじられなくなっていったことに気を落とした親鸞聖人は、比叡山を降り、法然上人の門下に入ることを選んだのかもしれません。親鸞聖人の『正像末和讃』に次のように述べてあります「今の世で本寺・本山におられる高位の僧といっても、法師といっても、嘆かわしいばかりである。」(『浄土真宗聖典 三帖和讃 現代語訳 190頁』そして、法然聖人(源空)の出会いについて次のような喜びの言葉が『高僧和讃』にあります。

善導・源信すすむとも 本師源空ひろめずは

片州濁世のともがらは いかでか真宗とさとらまし

 

善導大師や源信和尚が勧められても、源空聖人が説き広めてくださらなかったなら、インドから遠く離れた日本で、さまざまな濁りに満ちた世に生きるものたちは、どうして真実の教えを知ることができたであろう。

『浄土真宗聖典 三帖和讃 現代語訳 122頁』

 

南無阿弥陀仏