先月サンフランシスコで開催された世界仏教婦人会大会の運営にご協力いただいたサンマテオ仏教会の御門徒の皆さんにまずお礼を申し上げます。サンマテオ仏教会のメンバーの方々がレジストレーションを始め、通訳、翻訳、マーケットプレイス市場など全般的な企画と運営に加え、様々な分野で大活躍して下さったことに、心より感謝しております。今回の大会は十年も前から準備が始まっていて、多くの方々が沢山の時間と努力と財産をお布施してくださったお陰で、本当に尊い集いができたと思っています。日本、ハワイ、カナダ、南米、北米開教区(BCA)から御門徒と僧侶合わせて約1,700名の方が今回の大会に参加しました。
大会中、京都から参加されていた僧侶とBCAの開教使が昼食を一緒にする機会があり、私はこの場での通訳をするご縁をいただきました。会話の中で、「往生」の意味について話になり、お浄土に往生するということは死んだ後に往生するのか、今生きているこの人生の中においても往生できるのかという疑問が挙がりました。京都から来た一人の先生は親鸞聖人の書籍をいくつか挙げ、阿弥陀如来の本願を信じる人は、この人生が終わった時に、阿弥陀如来の浄土にすると示されました。
その際、BCAの開教使の一人が次のように言いました「北米開教区の開教使にとって、これは非常に興味深い話題です。最近、アメリカの仏教会に新しく入って来る人たちは現世の人生をどう生きるべきかについて尋ねることが多く、後世のことはほとんど関心を持っていないようです。」そして、「今、浄土真宗の教えを伝えようとしている私たちは、仏法を求めるために仏教会に入ってくる人たちの興味と関心に合った伝道をするべきではないでしょうか?」と言いました。
その問いに対して「確かに仏教会に入ってくる人々が持っている問いに答えるのは大事だと思います。しかし、これまで代々伝わってきた伝統的な教えを正確に取り次ぐことも大切です。」と、京都から来られた先生の一人が答えられました。
「伝統的な教えはともかくとして、あなた自身は個人的に往生をどのように理解していますか?」とBCAの開教使はさらに尋ねました。
「私の個人的な理解を述べるつもりはありません。私は僧侶として、親鸞聖人の書籍にいただく教えを正しく伝えることができたら嬉しいと思っています。」と京都の先生は言われました。
「開教使として、仏法がこの世界に生きている私たちにとって何の意味を持っているのかについて私の個人的な理解を述べる必要があると思います。」とBCAの開教使は続けました。
これを聞いて、京都から来られていたもう一人の先生が次のように言われました。「日本では伝統を守りたい人が多いのです。特に浄土真宗の教団においてそれは江戸時代(1603〜1867)から続いているのです。」
「それは400年前の話でしょう。今現在ではどうすればいいのでしょうか?」とBCAの開教使はさらに尋ねました。
「日本では今までに伝わって来た教えをそのまま伝えたいという人が多いのです。そして、前に立って新しい方向に行こう!と進めたい人は少ないのです。」ともう一人の京都の先生が言われました。
「それはよどみだと思います。例えば、水は動きがないと臭くなるでしょう。」とBCAの開教使は言いました。
BCAの開教使の考えを認めながら、京都の先生は次のように言われました。「親鸞聖人の教えはそれを聞く人それぞれの文化背景に応じて伝えた方が良いので、日本の浄土真宗とアメリカの浄土真宗は違ってもいいと思います。」
この会話はそのまましばらく続き、最後にデザートとコーヒーが来てもこの話は綺麗にまとめられませんでした。私はこの活発な会話を聞きながら、念仏者の間にこのような率直な話し合いが代々続いているおかげで親鸞聖人の教えが私たちが今生きているこの時代にまで伝わって来ているのだと思いました。蓮如上人は15世紀に次のように述べておられます。「細々(さいさい)に信心(しんじん)の溝(みぞ)をさらへて、 弥(みだ)陀の法(ほう)水(すい)を流(なが)せといへることありげに候(そうろ)ふ。」(『御文章』2−1)
南無阿弥陀仏