今月は、2,500年前釈迦牟尼仏が北インドのクシナガラに入滅したことを記念する「涅槃会」をお勤めします。悟りを開かれていた釈迦さまはこの世の命を終えた時、穏やかな心をもって死へ向かう涅槃寂静を得られました。阿弥陀如来の救いをいただく念仏者は、この命を終えた時、お浄土に往生し釈迦さまと同じ悟りを得ることが出来ますので、浄土の往生することを楽しみする人は多いはずですが、いかがでしょうか?
先日、一人のご門徒さんと話していたときに、「最近仏教を学び始めて、浄土真宗の教えにおいて、お浄土に往生することがポイントだと言うことは分かってきましたが、どうしてもお浄土に往生したいという気持ちは出てきません。このようにあまりお浄土に行こうと思わないことは反省すべきでしょうか?」と聞かれました。
実は、親鸞聖人も同じような質問をされたことがあり、次のように答えらています。
浄土にはやく往生したいという心がおこらず、 少しでも病気にかかると、 死ぬのではないだろうかと心細く思われるのも、 煩悩のしわざです。 果てしなく遠い昔からこれまで生れ変り死に変りし続けてきた、 苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、 まだ生れたことのない安らかなさとりの世界に心ひかれないのは、 まことに煩悩が盛んだからなのです。 どれほど名残惜しいと思っても、 この世の縁が尽き、 どうすることもできないで命を終えるとき、 浄土に往生させていただくのです。 はやく往生したいという心のないわたしどものようなものを、 阿弥陀仏はことのほかあわれに思ってくださるのです。 このようなわけであるからこそ、 大いなる慈悲の心でおこされた本願はますますたのもしく、 往生は間違いないと思います。
おどりあがるような喜びの心が湧きおこり、 また少しでもはやく浄土に往生したいというのでしたら、 煩悩がないのだろうかと、 きっと疑わしく思われることでしょう。
(『歎異抄』第九章 現代語訳)
私にもやはり煩悩のしわざが多々あり、お浄土に往生することをおどりあがるように喜んだことは未だありません。私が愛している家族や友人とお別れしたくないし、今までに頑張って築いてきた生活も捨てたくない。この世には、楽な椅子に座って本を読んだり、面白いテレビを見たりすること、家族と綺麗なところに旅行すること、友達と美味しいレストランで食事を食べることなどの楽しみがたくさんあるので、それを捨てて、少しでもはやくお浄土に往生したいとはなかなか思えないのです。
この世の楽しみに執着することを「むさぼり」と言います。大切に思っているものを失くすと嫌な気持ちになり「いかり」が出ます。そして、嫌なものや怖いものは全て避けようとします。釈迦さまは生まれるものは必ず死に至るという現実を詳しく教えて下さいました。私もいつか死ぬという現実は避けたいことですが、永遠に死を避けることは出来ません。このように避けられない現実をとりあえず無視することを「おろかさ」と言います。むさぼり・いかり・おろかさとは喜びをさえぎる煩悩のしわざなのです。
このように煩悩が多く、釈迦さまのように穏やかな心で死に向き合うことができない私を救うために、阿弥陀仏は本願をもって私の救いを誓って下さいました。この迷いの世界も私にとって捨てがたいものだと気づいた時、正に阿弥陀仏の本願に救いをまかせるしかないのです。
南無阿弥陀仏