多くの命のおかげ

11月に入りますと、いよいよホリデーシーズンが近づいてきました。 今月末にあるサンクスギビング(感謝祭)から始まり、年が明けるまで家族や友人が集まりご馳走をいただきながら楽しい時間を過ごす機会が続きます。

精進料理だけを食べる修行僧以外の世界の多くの仏教徒は肉や魚も食べます。サンマテオ仏教会が所属されている宗派浄土真宗は御開山親鸞聖人の時代から在家仏教の教団であり、僧侶が結婚をしお寺で家庭生活をする事は浄土真宗においては通常です。親鸞聖人は社会のあらゆる階級の同朋と共にお念仏の道を歩み、同じ在家生活をされました。修行僧のように精進料理だけを食べるご門徒さんが浄土真宗の教団の中であまり見ないと言うことは、在家仏教である様子の一つと言えるでしょう。

然し、日々精進料理だけを食べて暮らしていないからと言って、平気に生き物を殺していいと言うわけではありません。私が生きているということは多くの命のおかげだということに気づかされます。お肉や魚を食べるということはその動物や海の生き物の命をいただくということです。私は今までに数え切れない程たくさんの命をいただいてきました。そのため、私の命の中に多くの命が入っており、私の命は尊いものと言えます。

人間が生き物 の命をいただくのは動物を食べることからだけではなく、ひと昔前までは私たちが食べる果物や野菜を作る畑も牛やラバなど動物の力によって耕されていました。現代では馬や馬車に乗って移動することは少ないですが、私は時々、車を運転中に道路を渡ろうとして車に引かれて命を失った動物を見ると悔やみの気持ちが起きて頭を下げてしまいます。しかも、私たちが病気の時に飲む薬や身内の人たちが受けて命が救われた治療法は全て、まず動物で試験されてから人間に使われるようになっているのです。

これらの現実を考えると、私たちが今日まで生きてこれたのは多くの命のおかげだということに気が付きます。我が身をかえりみながら、『歎異抄』にある次の言葉が心に響いてきます。

この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。

(『浄土真宗聖典 歎異抄 現代語訳』10頁)

この人間生活の中で、他の命を救うよりも多くの命をいただいて生きている私たちは、「南無阿弥陀仏」のお念仏により如来の大慈悲の心をいただきます。本願寺の食前の言葉が表す「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。」という心で今月の感謝祭を迎えたいと思います。

 

南無阿弥陀仏