まさに異例であった今学年度もいよいよ終わりに近づき、我がアダムス家は新型コロナウイルス対策のためこれまで一年以上やってきたホームスクール体験もようやく終わるなあと楽しみに思う今日この頃です。ホームスクールの多くの勉強はオンラインで行う形式であったので、息子たちがインターネットを開いて好きなビデオやホームページをいつでも見ることが出来る状況の中で、いかに彼らを勉強に集中させるかがリモート学習での大きな課題の一つでした。
息子たちが算数のオンラインプログラムで勉強しているはずの時間に全く関係のない馬鹿馬鹿しいウェブサイトやビデオを見ているのに気づく度に、私は「えっ、またこんなくだらないものを見ているの?」と言ってしまいますが、実は私が小学生の時一人で学校から帰った日は、父が仕事から帰ってくるまでは私も何時間も馬鹿馬鹿しいテレビを見ていました。今思えば、そんな私に気づいた父が全く同じ発言をしていた記憶が確かにあります。
各世代は成熟するにつれ、次の世代の娯楽を批判する傾向があるようですが、現代のインターネットやスマートフォンの時代には特に人々の集中力が乱れてきている気がします。これは今の時代の問題と思われますが、『仏説館無量寿経』を読みますと、少なくとも釈迦様の時代から、多くの人間が人生における最も大切なことから心が乱れていたということがわかります。釈迦様は二千年以上前に次の言葉を述べられましたが、まさに今の時代の様子も表していると思います。
「世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を
立てているに過ぎない。」
(『浄土真宗聖典 浄土三部経 現代語訳』95〜96頁)
私もよく急がなくてもいいことを気にして、それより大切な苦しみからの解放のことをつい忘れてしまうことがあります。常日頃悟りに心を向けている人は滅多にいないので、釈迦様は「無量寿仏の国に往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである」とおっしゃいました(95頁)。
釈迦様は私たちが悟りを開いて生死の苦しみから解放されることを願って、この励みの言葉を説かれました。釈迦様は親切に私たちが私たちの心の本当の有り様に気づくように、「なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。」(95頁)とおっしゃっており、本当に大切なことに心を配るように促して下さっているのです。自分の所有物、ステータス、娯楽など大切に思われる世間的なものふり捨てることは簡単ではありませんが、私たちはそれら常に移り変わるものからは永続的な安心を得ることはできません。一方、仏法は本当の安心を与えてくれる拠り所です。その真実の教えを信じれば、心が転回して、お互いに敬い助け合う生き方をしやすくなるでしょう。
私にとって、子供の時に父に言われた率直な言葉を素直に受け入れることは簡単ではありませんでしたが、父は私に有意義で幸せな人生を送ってほしいという願いがあっての一言であったと気づいた時にようやく父の言いたかったことが理解できました。今振り返ってみますと、父からもらった指摘のおかげで私の人生の歩むべき道の多くが明らかになったと言えます。仏様も私たちのためにやさしい親心をもっておられるので、仏法を人生の拠り所にすることで、私たちが人生の中で本当に心を配るべき大切なことが明らかになるでしょう。
南無阿弥陀仏