夏が終わりにさしかかるにつれ、そろそろ心が9月24日の秋のお彼岸法要に向かいます。この季節はお寺の雰囲気をより味わうことができ、小林一茶(いっさ)(1763~1827)のこの俳句がこころに響いてきます。
小坊主や袂の中の蝉の声
こぼうずや たもとのなかの せみのこえ
昔から日本ではお寺が子供の教育の重要な役割を果たしてきました。現在にいたっても多くのお寺が近所の子供たちが通う保育園や幼稚園を経営しています。一茶の当時、子供の保護が出来ない家族は子供を小僧としてお寺に預かることも珍しくありませんでした。一茶自身が信仰していた浄土真宗のお寺は家族で営むことが多く、子供は幼い時から仏教のお勤めと教えを学んでいました。
蝉の鳴き声といえば日本の夏を思い出します。昔から、蝉という大きくて、立派な泣き声をする昆虫は子供に興味深く、多くの子供たちが蝉を捕まえ虫籠に入れて遊んできました。上記の俳句を読むと一茶の周りの小坊主たちが在家の子供たちと同様に遊んでいたことが分かります。その当時、あるお寺は修行の道場でありながらも、一方で子供の楽しい遊び場としても存在していました。小坊主たちはお勤めを学び、教典を勉強しつつ、夏には蝉を捕まえ、それを衣の袂に入れて遊んでいたのです。
出家してお寺に入った小坊主たち以外に、在家の子供たちも寺院の中の寺子屋で読み書きや算盤を習いにお寺に通ってきていました。サンマテオ仏教会で行われている「サマー寺子屋」というサマーキャンプは日本の寺子屋の古い仏教教育の伝統を受けながら運営されています。
サマー寺子屋に参加している子供たちは交代交代でお勤めの調声をし、毎朝大乗仏教の根本実践法である六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を学びました。サマー寺子屋が行われていた一週間の間、お寺は小学一年生から高校一年生までの子供たちが仏教の伝統と教えを学ぶ道場であると同時に、面白いひょっとこの面を作ったり、友達と歌を歌ったり、駐車場でバドミントンをしたりして、子供たちが楽しく遊ぶ場でもありました。
一茶は念仏に生かされていた人でした。念仏に生かされるということは親鸞聖人の言葉に次のように表されています。
男女貴賤ことごとく 弥陀の名号称するに
行住座臥もえらばれず 時処諸縁もさはりなし
(『浄土真宗聖典 註釈版』 594頁)
念仏に生かされるということは日常生活から離れることなく、毎日の仕事と遊びの中で仏様の智慧の光に照らされていることに気づくことを意味します。9月17日のお参りでは、サマー寺子屋の子供たちがお勤めを担当し、寺子屋の思い出を発表してもらう予定ですので、是非ご一緒にお参りください。
南無阿弥陀仏