釈迦さまのお別れの言葉

2月に釈迦牟尼仏が2,500年前、北インドのクシナガラに入滅したことを記念する「涅槃会」をお勤めします。釈迦さまは35歳の時に、菩提樹の下で禅定に入られ、悟りを開かれました。その時、全ての煩悩が滅した「涅槃」を得られました。しかし、それから45年間、人間としての生涯が続いたので、時々病気になったり、身体が痛くなったりすることがありました。生まれるものは必ず死に至るということは真実ですから、釈迦さまの人間としての身体もそうでした。釈迦さまがこの世の中の命を終えられた時、「般涅槃(はつねはん)」という寂滅に入られました。サンマテオ仏教会では、今年は2017年2月12日の午前9時半から釈迦さまを偲ぶための「涅槃会」法要が行われます。

釈迦さまは入滅される前、後に仏道を歩む人々のためにお別れの言葉を残していかれました。釈迦さまの教えが世界中に広まるにつれ、その言葉は尊い灯火となっています。13世紀の日本に、親鸞聖人は私たちに次のように釈迦さまの別れの言葉を伝えてくださっています。

釈尊がまさにこの世から去ろうとなさるとき、比丘たちに仰せになった。「今日からは、教えを依りどころにし、説く人に依ってはならない。教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。真実の智慧を依りどころとし、人間の分別に依ってはならない。仏のおこころが完全に説き示された経典を依りどころとし、仏のおこころが十分に説き示されていない経典に依ってはならない。」

(浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類 現代語訳 530〜531頁)

この四つの依りどころは人生を正しい道へと照らしてくれます。

教えを依りどころにし、説く人に依ってはならない。 釈迦さまの教えは菩提樹の下に座りながら開いた悟りの内容です。私たちは先生、父母、友達、親戚など様々な人間関係でその教えに出会いますが、自分自身がその教えを聞いて、信じないと利益を得ることはありません。

教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。釈迦さまは次のようにこれを詳しく説明されています。「言葉は教えの内容を表しているものであって、教えの内容が言葉そのものなのではない。言葉に依って教えの内容に依らないのは、人が月を指して教えようとするときに、指ばかりを見て月を見ないようなものである。その人は、〈わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て月を見ないのか〉というだろう。これと同じである。言葉は教えの内容であるわけではない。このようなわけで、言葉に依ってはならないのである。」経典に現れる釈迦さまの言葉は、仏道を歩むための導きであるので大切に頂戴するべきですが、真実そのものは不可思議・不可説と言われるように言葉を超えるものです。ですから、教えの内容をよく聞いて、信じることが大切です。

真実の智慧を依りどころとし、人間の分別に依ってはならない。人間の分別するこころは常にものを善し悪しとして判断し、自分の都合のいい物事ばかりを求めます。しかし、自分の都合のいい物事を優先することによって、周りに迷惑をかけたり、自分の苦しみを招いたりします。智慧の光が照らす真実は、自分に邪念があるときにこそ、一所懸命働きかけてくれます。仏道を歩む人生は、常に我が身をかえりみて、仏様の智慧の光をあおぐことなのです。

仏のおこころが完全に説き示された経典を依りどころとし、仏のおこころが十分に説き示されていない経典にってはならない。 経典というのは釈迦さまの説法の記録です。釈迦さまの説法の中で八万四千の法門という数多くの教えが説かれています。その全部の経典を読んで、その中に説かれている教えを完全に理解することはとても難しいことですので、仏道を歩む私たちにとって、それぞれ必要とする救いが説かれている経典に出会い、その教えを信じることが大切です。サンマテオ仏教会では、阿弥陀如来とお念仏が説かれている浄土三部経を、私たちが極楽で涅槃を得るための依りどころとしています。

 

南無阿弥陀仏