視力20/20

先日私が仏教会のオフィスで聖教の少し難しいところを読みながら、いつの間にか居眠りをしてしまっていた時、外のドアベルのチャイムが鳴ったのにびっくりして、とっさに立ち上がりインターフォンを取ろうと焦っているうちにメガネが顔から落ちてしまい床に当たった瞬間、フレームが壊れてかけられなくなってしまいました。アメリカでは一般の人が20フィート(6メートル)離れた距離で見えるものがそのまま20フィートの距離で見えるという優れた視力を20/20と言います。眼科医のオフィスによく掛けられてあるチャートの一番上にある大きいアルファベットは大体視力20/200と言われていて、それしか読めない人の視力は一般の人が200フィート(60メートル)から見えるものがそれらの人には20フィートの短い距離からしか見えない弱い視力を持っていると判断されます。私はメガネをかけていないとその一番上の大きいアルファベットを読むのにさえ苦労します。

ですから、メガネが壊れたとき私は必死になって、十年くらい前京都に住んでいた時に買ったメガネを探し出しました。私は初めて日本でメガネを買った時、出来上がったメガネをかけてみて、メガネ屋職員にこう言いました。「このメガネの強度は間違っていますよ。私は今まで毎回新しいメガネを作ってもらった時は、新しいメガネをかけた時の方がはっきり見えますが、このメガネは前に持っていたメガネよりも強度が低いようです。」そして、前のメガネの強度に変えてくれるかとお願いすると、メガネ屋の職員は次のように答えました。「私たちの考えでは、お客様が今までにかけておられたメガネの強度は強過ぎると思います。左目の視力の方がお強いから、左目の方がいつも右より働いています。左のレンズの強度を少し弱くすれば右と左がバランス良く働くようになるので、目の疲れも少なくなりますよ。」正直、私はその説明に対して疑問を持っていましたが、そのメガネ屋の職員は自信を持って説明してくれたので、とりあえずそのメガネをかけてみることにしました。実は日本に引っ越す前の私のメガネの処方箋は少しずつ強くなりつつあったのですが、六年間日本に滞在していた間は殆ど変わらなかったので、私はそのメガネ屋の職員から聞いた説明を信じるようになっていました。

その後、カリフォルニアに来て新しいメガネを作ってもらった時、眼科医の先生が「右目の処方箋はそのままですが、左目は強くしないといけません。」と言いました。それに対して私は京都でもらった処方箋の理屈を説明しようとしたのですが、カリフォルニアの眼科医の先生は「はっきり見える方がいいでしょう。片目の処方箋をわざと弱くすることを進める医療研究の結果は聞いたことがありません。」とそっけなく言いました。眼科医と医療研究について反論を出す気がなかったので、素直に新しい処方箋をいただきました。その処方箋通りに作った新しいメガネをかけてみると、初めて高速道路を運転した時に降りる出口のサインを遠くから読めたことにとてもありがたく思いました。

そして、今のメガネを修理している間、京都に住んでいた時にかけていたメガネをまたかけてみると、確かに本を読む時に目の疲れが少ない事に気が付きました。初めてカリフォルニアで診てくれた眼科医の先生は、とりあえずは物がはっきり見えればそれでいいという考え方でした。その先生は部屋の向こう側にある物がどこまで細かく見えるかによってだけで処方箋を決めていました。一方、京都で診てくれた眼科医は視力と物を見る人の両方の事を考えながら処方箋を決めていて、どこまで細かく物が見えるかだけでなく、一日中レンズを通して物を見る私の目の疲労度にも気を配ってくれていたのです。この二名の眼科医の先生の方針の違いを今振り返ってみますと「何が見える」のかと同時に「どのように見る」のかということを考えさせられます。

サンマテオ仏教会の本堂には「見真」と書いてある額がお内陣の欄間上に掛けられています。親鸞聖人は見真大師という大師号を明治天皇に宣下されました。「見真」というのは「真を見る」という意味で、阿弥陀如来の光に照らされている真実に気づきながら生きる、念仏者の生き方も表します。親鸞聖人は自分の眼について「正信偈」に次のように述べておられます。

「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。

わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、

煩悩がわたしの眼をさえぎって、 見たてまつることができない。

しかしながら、 阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、 そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」

お念仏によって「真を見る」視力というのは、まさにむさぼり・怒り・おろかさの煩悩によって正しいものの見方がさえぎられている瞬間の自身の心の本当の様子に気づくことです。2020年の新年を迎えながら、阿弥陀如来の光が常に私の人生を照らし、日々智慧と慈悲を私に働きかけていることに気づかせて下さっていることに感謝しています。

 

南無阿弥陀仏