4月は花まつりの法要をお勤めします。花まつりというのは2,645年前にネパールにあるルンビニーの花園でお生まれになったゴータマ・シダッタのご誕生をお祝いする日です。仏陀になることを目指し何回も生まれ変わり、ずっと修行してこられた人を菩薩と言います。この仏陀になられる菩薩の誕生については『仏説無量寿経』に次のように述べられています。
右の脇から生れて七歩歩き、 その身は光明に輝いて、 ひろくすべての世界を照らし、 数限りない仏の国土はさまざまに震動する。 そこで、 菩薩自身が声高らかに、「わたしこそは、 この世においてこの上なく尊いものとなるであろう」 と述べるのである。
現代人の科学的な考え方から見ると、このような生まれ方は不可能であろうと思われるかもしれませんが、この話は化学的な現実よりも宗教的な真実を表しています。
科学的な現実は目で見えるもの、耳で聞こえるもの、手で触るものなど物理的に計られるものに基づいています。その見方からすると、私の命はこの体から生まれた時に始まり、死ぬ時に終わるとなり、その考え方は計り知られるものに限られている。
宗教的な真実というのは目で見えない私たちの心を動かすものを示します。そして仏陀が説かれた真実は因縁によって成立しています。例えば桜の花は土、雨、太陽などという因縁によって開花します。花が咲くことは確かに科学によってある程度説明ができますが、どの花が何月何日の何時何分に咲くことは予想できません。また、人の人生はお父さんとお母さんの出会い、祖父母の出会いよりもはるか昔の因縁によっていただいています。そして、私たちの命が続いているのも日頃口にする植物や動物、そして吸い入れる酸素を作る木々などの多くの命の支えのおかげなのです。
また、尊い命も宗教的な真実と言えます。生まれたばかりのシダッタの人生は計り知れない多くの生まれを経て求道してこられた因縁の結果であったため、まさに尊い命でありました。その尊さは「わたしこそは、 この世においてこの上なく尊いものとなるであろう」という言葉に表れています。全ての人も数多くの因縁によって人間としての生まれをいただいているので、皆それぞれの命もとても尊いものなのです。
では、色々な命や多くの人々の支えをいただく尊いわたしの命は何のために生きていけば良いのでしょうか。楽に過ごすこと、財産を集めること、有名になること、権力を得ること、人生の目標は様々ありますが、仏陀の生涯にこれを尋ねますと、『仏説無量寿経』の中にこの言葉があります。 「すすんで人々に尊い教えを説き与えることは、 親孝行な子が父母を敬愛するようである。 まるで自分自身を見るように、 さまざまな人々を見るのである。」 この言葉から分かるように、尊い命は自分の楽、裕福、名称、権力のためではなく、人々を助けあう人生こそ尊いものなのです。
シダッタは35歳の時に菩提樹の下で悟りを開き、人生の残り45年間の間、人々が苦しみから解脱できる道を広く説かれ、多くの人々をお救いになったので、釈迦牟尼仏陀(釈迦族の聖者)と敬称されるようになりました。仏法の智慧と慈悲によって人生の歩むべき道が照らされている人々にとって釈尊は大いなる英雄であり、釈尊が説かれた教えは代々迷いの世界に苦しむ人々を極楽へと導く灯火となっています。その教えを聞くことによって、私たちもこの人生の尊さに気づくことができるのです。
南無阿弥陀仏