私が浄土真宗に出会った頃、あるご法話の中で「善人ばかりの家には争いが絶えない」という不思議な言葉を聞きました。その時の私にとっての「善人」とは自分で正しいことをちゃんと分かって、いつも正しい行いをする人だと思っていました。私はもともとそういう善人になりたくて、仏教を学ぼうと思ったので、この言葉を聞いた時はびっくりしました。
そのまま聞けば善人ばかりの家では、皆が正しい考え方を持って、正しい行いをして、仲良く暮らしているに違いないと思うのが普通と思いますが、自分の家庭生活を振り返ってみますと、確かにこの「正しい」ということばが原因で争いになったことは少なくありません。親子や配偶者との間で、子育て、政治、運転、料理、服装、髪型などについてさまざまな意見が出てきて、自分だけが正しい考えと行いをしている「善人」だと思ってしまうと、すぐに対立になってしまい争いが絶えることはありません。
例えば、子供が中学生くらいになると、親と服装や髪型についての争いが起こります。親にとっての「善」は相手に対して尊敬を表し、相手に尊敬される姿を見せる事です。そのため親は「そんなだらしない格好で外に出かけるな。」と言うかもしれません。しかし、中学生くらいの子供達にとっての「善」は自分の服装や髪型を通して今までになかった新しい格好良さや美しさを見せることです。彼らは、「親たちの古臭い考えじゃ今の時代がわかるわけない。」と答えるかもしれません。このような親子の場合、お互いに自分が善人で、自分が考えている善の立場こそが正しいと思ってしまい、永遠に争いが収まることは難しいでしょう。
この「善人ばかりの家」とは一家庭だけの話に限らず、あるゆる集団の中にも見えてきます。例えば、友達グループ、自分が住んでいる地域、国家でもそうと言えるでしょう。そして、残念ながら特に今の世の中では、自分こそが善人だと思っている人が多いがために争いが頻繁に起こっているような気がします。
「善人ばかりの家には争いが絶えない」と説かれた先生は、さらに驚いたことに「悪人ばかりの家には笑顔が絶えない」と続けられました。ここで言う悪人とは相手を傷つけてしまうような誤った考え方や行いをする人と言えるでしょう。しかし、自分がそのような過った考えや行いをして自分は悪人だと気づくことで、私たちは我を省みて自分の間違いを認めることができるようになります。もし先に挙げた子供の服装や髪型について争いがあった親子が、それぞれ自分が「悪人」だと思えるようになればどうでしょうか。そうなれば、親が子供に「あなたの大切な想像の思いを軽視してしまって悪かった。ごめんね。」と言ってあげられるかもしれません。そして、そう言われた子供も「いや、色々な社会経験で学んできたことを教えてくれようとしたのに、その話を聞こうともせず悪かった。ごめんね。」と言えるかもしれません。つまりその先生が伝えたかった事とは、このように、自分の間違いを認めて相手の立場を理解しようとする「悪人ばかりの家」には笑顔が絶えないと説かれたかったのだと思います。
『歎異抄』に「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(善人でさえ浄土に往生することができるのです。 まして悪人はいうまでもありません。)という言葉があり、悪人こそ阿弥陀仏の本願の救いの対象だと明らかにしています。私たちも自分の悪に気づいた時に本当の正しい道を求めるようになります。もしその正しい道が私の自己中心的な心にないと気づけば、悟りの真実を示す仏様の教えに耳に傾ければよいのです。
南無阿弥陀仏