先月の念仏セミナーで御講師シアトル別院元輪番カストロ・ドナルド先生が「エコサンガ-浄土真宗と環境保護」というテーマのもと、深く考えさせられるありがたいお話を聞かせて下さいました。地球温暖化によって、最近、ここ北カリフォルニアで頻繁に発生する大規模な山火事や、海に大量に浮かぶプラスチックのゴミなどの深刻な環境問題に対して、念仏者がどう答えるべきかについて、カストロ先生は詳しく述べられました。私はイーストベイに用事がある時など、なるべく車ではなく電車で行くようにしたり、コンビニなどでプラ袋をもらわないようにしたり、自分なりに日常生活の中で出来ることをしようとしていますが、これらの大規模な環境問題に対しては正直私一人の努力によってどれだけ改善しているのだろうという疑問を持つ時もあります。
希望が見えなくなるその時に仏法を仰ぐと、仏様の智慧の光が歩むべき道を照らしてくれている事に気がつきます。お念仏に生かされる人生の中で、大乗仏教の菩薩が起こして下さる下記の四弘誓願をありがたく思います。
一、衆生無辺請願度(一切の生きとし生けものすべてを、さとりの岸に渡そうと誓う)
二、煩悩無量請願断(一切の煩悩を断とうと誓う)
三、法門無尽請願学(仏の教えすべてを学び知ろうと誓う)
四、仏道無上請願成(この上ないさとりに至ろうと誓う)
(『仏教語大辞典』 中村元著 511ページ)
私は初めてこの四弘誓願に出会った時、非常に不思議に思いました。自分一人のことでさえなかなかさとりの岸に渡りつくことが出来そうにないのに、どうやってすべての生きとし生けるものを渡すことが出来るでしょうか?自分自身の煩悩一つでさえ抑えることに困難している私は、どうやって一切の煩悩を断てば良いのでしょうか?今まで二十年間自分なりに頑張って仏法を勉強してきたにもかかわらず、以前より何も理解していないような気がする私は、これからどうやってすべてを学び知ることが出来るのでしょうか?私自分の力によってこの上ないさとりに至るのは非常に難しいと思われます。
しかし、本願他力のお念仏の中で菩薩の道を歩む人生においては、自分の力で前に進むのではなく、仏様の智慧の光が歩む方向を照らして下さります。大乗菩薩の精神というは、仏様が説かれる真実の教えを信じ、諦めずに智慧の光が照らす道を歩み続けるということです。智慧の光が照らす道を歩めば、本願の不思議な働きによって、私自身が無上のさとりの岸に渡されるだけでなく、すべての生きとし生けるものを渡すことができるのです。
カストロ先生は講義の中で仏教徒の倫理は超自然的な神からの使命にも続くのではないということを明らかにされました。仏教の倫理とはすべての生きとし生けるものに対しての慈悲心に基づいているという理のことです。環境問題についての関心は山火事により住まいや命を失う人と動物さらに植物に対しての、そしてゴミの汚染により苦しめられる海の生き物に対しての哀れみの心によって起こってきます。環境問題に対する自分の無力を感じ落胆する時、『歎異抄』の第四章にある次の言葉に歩むべき道が照らされています。
慈悲について、 聖道門と浄土門とでは違いがあります。
聖道門の慈悲とは、 すべてのものをあわれみ、 いとおしみ、 はぐくむことですが、 しかし思いのままに救いとげることは、 きわめて難しいことです。
一方、 浄土門の慈悲とは、 念仏して速やかに仏となり、 その大いなる慈悲の心で、 思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。
この世に生きている間は、 どれほどかわいそうだ、 気の毒だと思っても、 思いのままに救うことはできないのだから、 このような慈悲は完全なものではありません。 ですから、 ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。
このように聖人は仰せになりました。
(『浄土真宗聖典 歎異抄 現代語訳 9〜10頁』)
この教えの意味は自分一人ではこのような大きな環境問題を解決することが出来ないからと言って、人と生き物を助けようとすることに意味がないということではありません。確かに、私一人の力ではすべての生きとし生けるものの苦しみを取り除くことはできません。そこで、苦しむものが数え切れないほど多いからこそ、阿弥陀如来の智慧と慈悲が常にすべての生きとし生けるものをさとりに渡してくれるという本願が立てられました。その本願を信じる他力念仏の心とは、自然にお互いを敬い、助け合う人生を目指すものであります。
南無阿弥陀仏