怨みをすててこそ怨みが息む

2019年4月14日の9時半からサンマテオ仏教会で釈迦さまのご誕生を祝う灌仏会(花祭り)を行います。2,682年前、現在のネパールにあるルンビニーの花園に生まれた赤ん坊はシッダッタと名付けられ、後に悟りを開いて、釈迦牟尼仏(釈迦族の聖者)と呼ばれるようになりました。二千五百年以上経った今でも釈迦さまの真実のことばは心に響いてきます。ダンマパダ(法句経)にその一つが述べてあります。「実にこの世においては、怨みに報いるにうらみを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息(や)む。これは永遠の真理である。」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳 10頁)

花祭りでは、釈迦さまがお生まれになった日の様子を再現して銅像に甘茶をかけます。その銅像の右手が上を指し、左手が下を指している姿は釈迦さまが誕生されたすぐ後に七歩歩んで「天上天下、唯我独尊(唯(た)だ、我(われ)、独(ひとり)として尊(とうと)し)。」と言われた話に基づいています。この「唯(た)だ、我(われ)、独(ひとり)として尊(とうと)し」ということばの意味は自分の人生は他の人より尊いということではなく、幼いながら人間としての生まれの尊さを理解していたことを示しています。釈迦さまが人間としての生まれを大切にし、ひたすら悟りの道を求めて、そして悟りを開いた後は他の人々にその道をお伝えになられました。人間としての生まれは迷いと苦しみから解放できる貴重な機会であるという意味で尊いのです。釈迦さまのご誕生の話がその真理を表します。人生が中断されると解放の可能性が奪われてしまいます。釈迦さまは殺人者の悪人も仏の大慈悲に出会い、自分の行いを反省すれば、智慧の光に照らされている人生が開かれると説かれました。

怨みの暗やみにより大勢の命が奪われている現在の社会において、カリフォルニア州知事ギャビン・ニューサム氏が最近命じた死刑執行の一時停止は私に希望を与えました。2016年8月、北米開教区の開教使会は死刑の廃止を求める決議を承認しました。その決議を討論した際、一人の開教使が次のように言いました「身内の人が殺害された経験がない私は簡単に死刑への反対を表明できますが、もし自分の身内の人が殺害されたら、私の考えは変わるかも知れません。そういう風に考えてみると、愛している人が殺害された遺族の人に対して「あなたは死刑を求めるべきじゃない」とは言えません。この複雑な話題についての討論が続く中、様々な視点を認める開教使会に私も参加できて、ありがたく思いました。
討論の後半、一人の先輩開教使に次のことばをいただきました。「凡夫である私にとっては身内の人が殺害された故に死刑を求める人の気持ちはよく分かります。しかし、罪深い悪人の救いを願う阿弥陀如来の本願の心をいただく上でこの問題を考えて見ますと、死刑をされた人は仏様の智慧に出会い心を転回して、他の人を導く仏門を歩める可能性が奪われてしまうことになるので、死刑に反対します。」この言葉によって多くの開教使の考えがまとまり、決議の承認が出されました。

いかりとむさぼりとおろかさが多いこの世の中に現れて「怨みに報いるにうらみを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息(や)む」という永遠の真理を表した釈迦さまのご誕生を祝う花祭りは人間として生まれたことのありがたさをより深く味わえるご縁となる事でしょう。

 

南無阿弥陀仏