毎年春に世界中の仏教徒が、約2500年前インド北部に生きておられた釈迦牟尼仏陀の誕生を祝う法要を行います。日本の仏教では、4月8日が釈尊誕生の日とされ、その日に「花祭」という行事が行われ、これは釈尊誕生の際に、たくさんの花々が一斉に開花していた様子に基づいて行われています。サンマテオ仏教会では4月9日(日曜日)の9時半から「花祭」法要を行います。皆さま、是非ご一緒にお参りください。
夫人は種々の苦悩憂患なく、怒り、悲しみ、奢り、偽はりの心を生ずることなく、ひたすら、悪みと、諍いと、喧騒の巻を厭ひ空閑の林に遊ばんことを楽っていられた。(p. 18)
釈尊は生まれて直ぐに七歩歩まれ、その足跡には蓮の花が七つ咲いたと伝えられています。この七歩歩まれたというのは、生死の六道を乗り越える意志を表すと言われています。そして釈尊はそのとき、右手で天上を指し、次のように言いました。
『我れはこれ仏となるために生れたのである。この生涯は我が人間としての最後の生である。我れはもう他の存在を受くることなく、我れはすべての中に於て最も偉大なるものとなつて、、広く一世の生類を救済するであらう。』
仏所行讃 : 現代意訳, 池田卓然 訳著, p. 20
仏教の教えでは伝統的なインドの考え方を受けて、すべての生きているものは六道という六つの世界のいずれかに生まれ、そして死んではまた別の世界に生まれ変わることを繰り返すと言われています。この生死の六道を学ぶことによって、その時々で変化する私たちの日ごろの心を理解することができます。源信和尚(942~1017)は『往生要集』という論書の中で六道について次のように述べています。
地獄
衆生は次の八つの地獄に生まれることがある:1)等活地獄(何回も同じ苦しみが続く)、2)黒縄地獄、3)衆合地獄(鉄山が両方からせまって砕ける)、4)叫喚地獄、5)大叫喚地獄、6)、焦熱地獄、7)大焦熱地獄、8)無間地獄(絶え間なく苦しみを受け続ける)。仏教の地獄は神罰によって、永遠に苦しむところではなく、地獄に生まれるということは本人が恨んだり、傷つけたりする生き方に対して生じる報いのことです。他の五道と同じように、地獄に生まれてもそれは永遠に続くのではなく、いずれ死があり、次の転生があります。
餓鬼道
餓鬼は飽くことのない欲望(特に食欲と渇き)をもっていますが、食べ物や飲み物が唇に触れる瞬間に、それらが火となり口を火傷してしまうために常に飢えに苦しんでいます。餓鬼の様子は腹が丸く膨れていて、とても狭い首をしている姿で描かれていることが多く、人間と天の世界にも現れわれことがあります。餓鬼に生まれることは欲張りの報いであります。例えば、何か良いものをもらったにも関わらず、もっと良いものが欲しかったとそれに満足せず有難く思わないのは餓鬼の苦しみと言えるでしょう。
畜生道
畜生というのは動物のことを示し、畜生道に生まれたものは恥を知らず、自分の愚かな生き方を気にしません。また、常に罰を恐れながら、ご褒美ばかりを求めるのは畜生の生き方です。野生の畜生は殺し、殺される生涯で、人に飼われている畜生は一生涯きつい労働に使われます。畜生に生まれることは無明(煩悩にとらわれた迷い、愚かさと無知)に対する報いなのです。
阿修羅道
阿修羅は常に自分よりいいものをもっている相手(特に天)をうらやましがって、競争します。阿修羅の世界は勝つものと負けるものにはっきり分かれており、敵に囲まれることや戦いによる傷害が苦しみとなります。阿修羅は仏のみ教えを聞くことができるものの、相手に勝つことに一生懸命になるあまり、布施と慈悲のこころを忘れることが多いのです。
人道
源信和尚は人間の根本的な様子として次の三つを述べています:1)不浄:人間の体のすべての部分は病気に罹かったり、衰退していきます、2)苦:人生の中で皆必ず苦しみに遭遇します、3)無常:人間は皆いずれ死に逝きます。しかし、六道の中で、人間として生まれることは仏法を聞き悟りを得るための最も優れた機会なのです。礼讃文に「人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。この身今生にむかって度せんば、さらにいずれの生にむかってかこの身を度せん。」とあるように、人間としての生まれは貴重なものなので、他の人の命を救うように努めたり、他の人から自分の人生に必要なものをいただいたり、学び取れるように努力しなければなりません。
天道
天は力を持っており、楽しさ、欲望が満たされた生き方をします。但し、天も他の五道と同じように、いずれ死の別れの苦しみがあります。天道はあくまでも楽しむことが中心であるため、自分の死が近づくと、仲間からはずされ、楽しい宮から追い出され、孤独に死んでいきます。また、天が死ぬと、次に六道のどこに生まれるのか分からず、最も悪いところの無間地獄に生まれる可能性もあります。
人間としての生まれることは無常であり、いつ終わる のかは知ることができません。この人間としての生まれが終われば、他の五道に転生することが可能です。実際のところ、私たちは今までに数え切れないほど生まれ変わり、死に変わりを繰り返し、幾度となくすべての 六道を通ってきているのです。仏教における目標は常に人道にいるのではなく、すべての衆生(生きとし生けるもの)と共に生死から開放されること意味します。仏になることは生死から解放される道を悟り、すべての迷えるものを悟りに導くということなのです。『歎異抄』第五章にて親鸞聖人は六道のすべての衆生の救いについて次のように述べています:「命のあるものはすべてみな、これまで何度となく生まれ変わり死に変わりしてきた中で、父母であり兄弟・姉妹であったのです。この世の命を終え、浄土に往生してただ ちに仏となり、どの人をもみな救わなければならないのです。」(『浄土真宗聖典 歎異抄 現代語訳』)
南無阿弥陀仏