優しい眼差しをいただく

財物がなくても他の人に出来る布施の一つは、相手を憎むことなく、優しい眼差しで接することだと説かれています。ここに言う優しい眼差しとは、ただ目の前に起こっていることだけを見ているのではなく、私たちにお慈悲の心をもって苦しんでいる人たちに手を差しのべるよう後押ししてくれています。

盂蘭盆会(お盆)という仏教の行事は、釈迦様とその弟子の目犍連尊者の話に基づいていると言われています。すでに悟りを開いていた仏弟子の目犍連尊者は天眼という優れた視力をもっており、生死の境を超えて因果の動きを見ることが出来ました。ある時、目犍連尊者はその視力を使い、六道*の世界の中で亡くなった自分の母親を探しました。すると、母親が餓鬼道という欲が多く、決して満たされることのない、とても苦しい世界に落ちているのが見えました。

目犍連尊者はすぐに釈迦様のところへ行き、どうすれば母親を救えるかを尋ねました。釈迦様は、亡くなられた人たちのために私たちが直接何かできることはないが、自分の周りの人たちと助け合うような行いをすれば、それこそが母親への感謝を表すことになるとおっしゃいました。そこで、目犍連尊者は釈迦様がおっしゃったとおり、七月十五日に僧侶の仲間に食べ物、衣等のお布施をしました。

そしてお布施をした後、再び天眼を使い、六道の世界の中に母親を探すと、母親が餓鬼道から開放された様子が見えました。普段は尊厳でまじめな僧侶だった目犍連尊者ですが、その時ばかりは大喜びし、周りの目を気にせず踊りだしました。この時の、目犍連尊者がこのように仏様のみ教えを喜び、踊りだしたことが今年は8月12日にサンマテオ仏教会で行われる盆踊りの由来だと言われています。

阿弥陀仏がすべての衆生を苦しみから解放させようと説かれた四十八願は仏説無量寿経に表されています。特にこのお盆の時期、私は下記の第六願が特に意味深いと思っています。

わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が天眼通を得ず、数限りない仏がたの国々を見とおすことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(浄土真宗聖典 浄土三部経 現代語訳 26頁)

ここに述べている「天眼通」というのは目犍連尊者のように悟りを開いた者が皆持つ優れた視力です。

            今年のお盆に私たちがお偲びする方々は皆、阿弥陀如来のお浄土に往生され、目犍連尊者と同じ悟りを開き、六道のすべての因果の動きが見える天眼を得られました。目犍連尊者が自分の母親が餓鬼道に苦しんでいる様子が見えたのと同じように、お浄土に居られる方々も私達がこの迷いの世界にいる様子が見えているのです。

そして、悟りを開いていた目犍連尊者が、母親が苦しみから解放されるように周りに施しをして回ったのと同じように、私たちがお盆に偲びする先亡者の方々は常に私達を悟りの道に導いて下さっているのです。それは夏のお盆の時期に数日間だけ帰ってくる霊なのではなく、毎日常に私達を導いて下さっている還相菩薩なのです。

目犍連尊者にとって、母親の苦しみは自分の苦しみでもあり、母親の苦しみからの解放は自分の苦しみからの解放にもあたるものだったので、母親の開放を見た途端、目犍連尊者は大喜びで踊りだしたのでした。お盆にお浄土に往生された方々を偲びますと、彼らが私たちを常に悟りの道に導いて下さっていることに気づかされます。その導きを喜び、感謝しながら盆踊りを踊っていますと、偲びする方々もまた私がお念仏によって苦しみから解放されることを喜びながら、私たちと共に踊ってくれているのです。

南無阿弥陀仏

*地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天