み仏のみこゑかのごと

サンマテオ仏教会では10月に親鸞聖人の奥様恵信尼さまと末娘覚信尼さまを始め、代々お念仏の喜びを伝灯してきて下さった仏教婦人の方々をお偲びし、今月のダーマスクールの法話では甲斐和里子や金子みすゞ、20世紀にお念仏を喜ばれた女性の詩人をご紹介する予定です。

1952年から1955年までサンマテオ仏教会に赴任されていた開教使田名大正師の奥様、田名ともゑ夫人は長年アメリカにて短歌でご活躍され、お念仏の喜びを表す短歌を沢山残して下さいました。ともゑ夫人は1913年北海道の寺族にお生まれになり、1937年に大正先生とご結婚された後、1938年に渡米されました。最初はバークレーに住んでおられ、その後はロンポックで暮らされていました。

太平洋戦争が始まると、1942年3月に大正先生は逮捕され、戦争が終わるまでニューメキシコ州のサンタフェーとローズバーグにあった戦時敵国人抑留所に収容されていました。

ともゑさんは長男ヤスト氏と次男シブン氏と共にアリゾナ州のヒラ日系人強制収容所に収容されました。その時はともゑ夫人は第三子を妊娠されており、三男チニン氏は収容所で生まれました。四男アキラ氏は戦争が終わった後に生まれました。サンタフェーの戦時敵国人抑留所から自分の家族がいる収容所に移動し、家族と再会できた開教使もいましたが、大正先生は結核で入院したことが何回もあり、なかなかご夫人と家族が待つヒラに移動することが出来ませんでした。ともゑ夫人は戦争が終わるまで一人で三人の子供を育てられました。大正先生がようやく戦時敵国人抑留所から解放された時、一家が強制的に離された時間の方がその前の一緒に暮らしてきた時間よりも長かったそうです。

ともゑ夫人は短歌の名人で、収容所の経験を描いた心に響く短歌も多く読まれました。夫人はその短歌を大正先生宛の手紙に書かれ、大正先生はそれをずっと書き続けられていた日記に下記のように写されました。

みほとけにと手折りし花を少女らは我に給ひぬうれしく供ふ

シエルの嶺ゆ吹き来る風の冷たさに真夜ともなればかけ衣をます

法語つづくひまひまにきくこほろぎの音もみ仏のみこゑかのごと

我がもちし聖典ひらき人びとの声を合はして誦経をするかも

雨くると空の雲ゆきすぐ変わる常なき人の世のさまに似て

(以上は『サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記』第一巻 194)

母恋ふる病む児を憶ひ針もてる手もすすまざる汗も拭(ふ)かざる

うるむ瞳(め)を日記に走らせいきつかずよみ終りたり汗もわすれて

さまよへる我を導くなつかしき夫の筆あとくり返し読む

夫の手の我が面(も)に触るるとして醒めし目に入るものか星のまたたき

めしか歌ふ調べに小さき子は覚むると見えず共に歌ひぬ

(以上は『サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記』第一巻 250)

ともゑ夫人とご家族は戦時中アメリカで辛い経験をされてきたにも関わらず、この国と国民に対しての恨みの気持ちは持っておらず、むしろアメリカの国に多くの人が短歌の美しさに出会えるように努力されました。夫人がお念仏に生かされていた広いお心が1951年に読まれた次の短歌に表されています。

アメリカの国歌うたいて育つ子に従い行かん母我の道

(『在米同房百人一首』1951年出版)

南無阿弥陀仏